窓の外は、今日も雲ひとつない晴天だった。眩しいほどに澄んだ蒼が、見晴るかす限りに広がっている。陽射しを避けて部屋の中にいるには申し分のない天気なのだが、外に出たならきっと、今日はいささか暑すぎると感じられることだろう。
 千尋は窓辺に寄ると、身を乗り出すようにして眼下を眺める。橿原宮の中でも高い階層に位置する千尋の部屋からは、王宮を囲むように植わった木々がよく見えた。豊かに葉を茂らせた樹木は鮮やかな緑ではあったが、風に揺らされることもないその姿は、幾分瑞々しさに欠けるようにも思える。
 一番最近、雨が降ったのは、いったい何日前だったろうかと、千尋は微かに眉根を寄せる。ここしばらく、まとまった雨の降った記憶はない。陽射しも徐々に強くなるこの季節、晴天も続きすぎれば毒というものだ。樹木も草花も、どことなく生気を失って見えるのは当然かもしれなかった。
 この分では田畑にも影響が出始める頃だろうか。今の豊葦原は水の恵みも豊かな土地であるから、少々の日照りですぐに害が出ることはないが、このままの天気がもうしばらく続いたら、と考えると少なからず先行きが案じられた。
「晴れているのは気持ちが良いのだけど、これだけ続くと心配になるわね」
 室内を振り返り、千尋は溜息混じりの言葉を紡ぐ。文机に向かって書き物をしていたはずの柊は、いつの間にか手を止めて千尋を見ていたようで、頬には微かな苦笑が浮かんでいた。眦を和らげた、気を許していると感じさせる表情は、近頃ようやく見慣れてきたものだ。こんな彼の顔を見られるようになるまでにどれほど苦労をしたことかと、出逢ってからの決して短くはない時間を思えば、懐かしくもくすぐったい心地がする。
 千尋の物思いを知ってか知らずか、柊はその表情のまま、千尋の横へと歩み寄ってきた。窓の向こうに広がる景色へと巡らされた視線は、最後に千尋の顔で止まる。口元の笑みはそのままに、彼は「水神にでも請われますか?」と問い掛けてきた。
 何かと言えば龍に伺いを立て、龍に加護を請うてきたのが、この国を治める女王の ―― 龍神の神子の慣わしだ。柊の口にした言葉は、あるいはこの橿原宮に仕える他の者たちから聞かされたとしても不思議のないものだった。ただ一点、彼が他の者たちと違っているだろうと思えるのは、内容にそぐわない口調の軽さだった。まるで、今日は出かけるのかと尋ねる程度の、気安い物言いだ。 ―― それは恐らく、問いながらも既に、彼が千尋の答えを見通しているせいなのだろう。
 千尋が首を横に振っても、やはり柊は意外そうな顔ひとつ見せなかった。
「神様になんて、もう祈らないわ」
 言いながら思い出すのは、かつて神の力を求めたときの記憶だ。闇を祓うため、この豊葦原に生きるものたちを救うために、千尋は白龍を喚んだ。そして、まるでその代償とでも言うように、柊を喪った。
 神の力に縋ったあのときの自分では、伝承を覆すことなど叶わなかった。加護を請わないことを選んで初めて、伝承にない未来を ―― 柊が生きている、この世界を手に入れた。だからこそ、今も、これからも、自分の力ひとつで進み続けなければいけないような気が、千尋にはしている。
 考え込むうちに表情が硬くなっていたのだろうか。千尋と向かい合っていた柊の表情が俄かに曇った。眉を顰めた彼は、ひどく痛ましげに千尋を見る。聡い彼のことだ、千尋が何を考えたのか察しているのだろう。
 苦笑にも似た微笑みを、千尋は頬に浮かべた。強がったわけではない。こうして勝手に責任など感じて思い悩もうとする彼を見ると、自然と微笑せずにはいられないのだ。仕方のない人、と心の中だけで千尋は呟く。けれどそれは、決して彼に対する負の感情ではなかった。彼を深く知った今となっては、そのようなところも愛しいというのが本音だ。
「いいのよ。だって、私の欲しいものをくれるのは神様ではないから」
 笑い混じりの声で告げれば、柊の視線が僅かばかり和らいだ。それでも、彼の表情にはまだどこか納得しかねている気配が漂っている。頑固な人だと、千尋はまた胸の内でひとりごちた。
「……私の欲しいものは、全部柊がくれるのでしょう?」
 まるで試すように、千尋は悪戯めいた視線で柊の顔を覗き込む。すると一瞬、彼が微かに目を瞠るのがわかった。それでも、すぐにいつもの表情を取り戻した柊は、愉快そうな目付きで千尋を見返してきた。
「私は、我が君に全てを捧げておりますのに。まだ何かお望みなのですか?」
 からかうような柊の言葉に、千尋は負けじと笑みを浮かべる。
「私のことを欲張りだって言ったのは、柊だよ」と言い返せば、そうでございましたね、と柊からは苦笑が返ってきた。軽いやりとりに、ふたりで目を見合わせれば、自然とくすぐったい心地になる。
「……それで、我が君は何をご所望ですか?」
 問い掛けられて、千尋は笑みを深くした。彼に望むのは、決して大きなことではない。女王としてこの国のために力を尽くすのは、全て自分の役目だ。だからこそ、柊に望むのは ――
「傍にいて」
 囁くように告げると、またも柊が呆気に取られるのがわかった。微笑んだまま、千尋はその様子を見る。
 自分が強くいるために、まっすぐ前を向いて進むために、この人こそが必要なのだと、千尋はもう知っているのだ。豊葦原に生きる全ての者の幸せを願う「女王」としての姿の裏には、ただひとり、愛しい人の存在に支えられている自分がいる。彼がいなければ、女王であること以前に、きっと生きていくことすらできない。
 目を瞠っていた柊は、それからその視線を緩ませたようだった。穏やかに笑顔を浮かべた彼は、幾分大袈裟な仕種で千尋の前に膝を突く。掬い上げるような視線が千尋を見た。
「それなら、神ならぬこの身にもお安い御用にございます」
 口調こそ芝居がかってはいるものの、柊の声には紛れもなく真摯な色があった。たとえふざけているように見えたとしても、これが彼なりの誓約であるのだと、千尋にはわかった。
 自らも膝を折り、千尋は柊へと手を伸べる。肩口に抱き付くと、仄かに彼の身体の温みが感じられた。耳元に触れた彼の息は、柔らかく微笑を滲ませている。千尋が指先に彼の髪を絡めると、応じるように柊の掌が千尋の髪を撫でた。優しい彼の仕種に、胸が切なく、温かくなる。
 ―― 神様の力なんて、いらない。
 もう一度、千尋は胸の奥で繰り返す。
 彼とふたりでいられるなら、それが自分にとっては何よりの力になる。人の想いとはとても強いものなのだと、千尋は自分の身をもって知ったのだから。これからもきっと、それを証明し続けていけるだろう。この温もりが、手の中にある限り。

Fin.

「青色20題」は、物書きさんに20のお題よりいただきました。