※このお話は、当サイトの忠花現代ED編(『ホンジツノコイモヨイウ』シリーズ)の設定を基にしています。

 窓の外に流れる景色が、不意にぐらりと浮いた。耳障りな金属音が微かに聞こえたかと思うと、身体が人波に押されて傾ぐ。
 流れに逆らわず、押されるがまま隣に立つ頼忠に身を任せていると、ほどなくしてカーブを抜けた電車は平衡を取り戻した。
 ほっと息をついた花梨は、そのあとで今度は深々と溜息を吐き出した。ついてないなあ、と心の中で呟いて、微かに眉を顰める。
 休日の夕方ではあるのだし、多少の混雑なら覚悟はしていた。けれど、乗り込んだ電車で待ち受けていたのは、予想を大きく超える数の乗客だった。
 車内アナウンスによれば、事故かなにかのせいでダイヤが乱れていると言う。おかげでこの、ラッシュアワー並みの乗車率だ。決して背が高いとは言えない花梨にとっては、やはりどうにも息苦しい。
 しかし、深い溜息の理由は、それだけではなかった。
 至近距離から、あるいは人の頭と頭との間を縫って向こうのほうから、時折ちくりちくりと刺さってくる視線がある。仕方ないと、これも疾うにわかっていることではあるのだけれど、やはり堪えるものは堪える。
 ―― たぶんその視線は、花梨を見る前に、周囲より頭ひとつ抜け出た頼忠の顔を捉えているはずだ。どこかで……たとえば雑誌の中で目にしたことのある顔を見つけて少し驚いて、それから彼にくっついて立っている花梨へと目線が回ってくる。直接見てはいなくても、きっとそうなっているはずだと、容易に予想がついた。
 源頼忠。
 かつては源氏の武士として、日夜研ぎ澄まされた刀を振るっていた彼も、今ではすっかり「それなりに顔の知られたモデル」という立場が馴染んでしまっている。
 彼がこの仕事を始めたばかりの頃は、想像していたよりずっと順調にこの世界に馴染んでいってくれていることを嬉しく思う気持ちが大きかったのだけれど、順調過ぎたばかりに……と言うべきか、今では逆に、少々贅沢な悩みを抱える羽目に陥っている。
 頼忠の隣にいる花梨には常々、様々な思惑を含んだ視線が向けられる。その中には好意的なものもあることはあるのだけれど、大抵はあまり、心地よく受け流すのが難しいものばかりだ。興味津々、というのならまだ良いほうで、品定めされているように感じたり、あるいはあからさまに敵意めいたものを感じたりすることも、少なくはない。
 不満など言っても詮ないことだ、とはわかっている。もうずいぶんと慣れたことだし、頭では納得しているつもりだし、気にしちゃいけないと、いつも自分に言い聞かせてもいる。
 けれど、ただでさえ息の詰まりそうな満員電車の中で無遠慮な視線を受け止め続けるのは、やはり気疲れがする。
 こんなとき、いたたまれなさを感じて、つい花梨は身をすくめてしまうのだけれど、対して頼忠のほうは慣れた様子だ。特に意識するふうもなく周囲の視線を受け流す様は、モデルという立場にすっかり馴染んでしまっているように花梨には感じられた。
 頼忠にしても元来、他人の感情や視線といったものに鈍感な性質ではない。だから、今こうして涼しい顔をしているのも、決して本当の無意識なんかではなくて、立場に応じて身につけた……自分を慣れさせた結果なのだろう、ということは花梨にもわかっていた。
 頼忠さんは、もう、こんなふうに振る舞えるんだ。
 そう思うと、少し、ほんの少しだけなのだけれど、彼が遠くなったようにも感じてしまう。足踏みばかりでなかなか前に進めない自分は、置いていかれるばかりのような気がする。
 こんなに近くにいるはずなんだけどなあ、と肩越しに彼の体温を感じながら、花梨は目線を落として小さく溜息をついた。
「どうした?」
 微かな吐息を聞きつけたのか、不意に頼忠の声が降ってきた。人と人との間に挟まれたわずかな空間で、顔をうつむけるようにして花梨に囁きかけてくる。
「あ、ううん」
 顔を上げて、なんでもないよ、と花梨は曖昧に笑った。
 ちょっと考えごとをしていただけ。そんな表情を装って頼忠を見返したのだけれど、花梨の顔に据えられた頼忠の視線は、動かない。 強い力を持った眼差しが、まっすぐに瞳を覗き込んできた。
 こうなると、ごまかせないから、困る。
 本当に思っていることは、今、こんなところじゃ口に出せない。 だから、それとなく流してしまおうとしているのに。
 数秒、じっと見詰め合ったところで、居心地の悪さに花梨はまた目を伏せた。花梨がなにかごまかそうとしていることを、彼がお見通しなのはわかっているけれど、これ以上は聞かないで欲しいというささやかな意思表示だ。
 口をつぐんだ花梨に、それ以上頼忠からの言葉はなかった。途切れた会話の代わりに、規則正しい振動と、車両のどこかから届くざわめきだけが、耳をかすめていく。
 ―― やがて、電車は緩やかに減速を始めた。人の波にまたもや大きく押されたかと思うと、重い音を立てて電車が止まる。
 ドアの開く音を耳に捉えながら、自分たちの降りる駅まではあといくつあるだろうかとぼんやりと考えていた花梨は、頼忠の声でふと我に返った。
「降りるぞ」
 短く告げられた言葉に、花梨が「えっ?」と声を上げたときには、もう手を引かれていた。
 すみません、とそつなく人ごみの中を縫って行く頼忠にホームまで引っぱり出されて、ようやく振り向いた彼の顔を花梨は唖然として見上げた。
「どうしたの? 急に」
 ふたりの住んでいる街までは、もうしばらく電車に揺られていなければいけないはずだ。突然用事でも思い出したのか、それとも具合でも悪くなったのか、と考えを巡らせる花梨に、頼忠から返ってきたのは意外なほどあっけらかんとした笑顔だった。
「寄り道する時間くらいは、まだあるだろう」
 告げられた言葉に、花梨はまた目を瞬かせる。およそ彼に似つかわしくない、のんびりとして行き当たりばったりの言葉だ。
 確かに頼忠の言うとおり、まだ空は十分に明るくて、日暮れまでには時間があるだろうとは思うのだけれど、彼がこんな気まぐれを起こすのは珍しい。「大丈夫、だけど……」と答えは返しながらも、なにが起きたのやらと花梨としては驚くばかりだ。
 狐につままれたかのような花梨の表情には気付いているだろうに、頼忠は平然とした笑みを崩さない。話は決まったと言わんばかりに、花梨の手を引くと手近なベンチに腰を下ろしてしまった。有無を言わせぬ勢いに、花梨もつられるまま、頼忠の隣に座り込む。
 辺りは人のざわめきに満ちていたけれど、ふたりの間にはそのまま沈黙が落ちた。緊張感のかけらもない、どこか気の抜けた無言状態というのも、それはそれで落ち着かないものだ。
 ちらりちらりと様子を窺ってはみるものの、改札に向かう人の流れを眺めている頼忠には、一向になにかしようという気配も見えない。どうにも居心地が悪く思えて、ややあって花梨はそろそろと口を開いた。
「……ねえ、なにか用があったんじゃないの?」
 困惑気味の問いかけに、しかし返ってきたのは微かな笑みだった。いや、と花梨の言葉をさらりと否定して、視線は前に向けたまま、頼忠は「しばらくすれば電車も空いてくるだろう」と相変わらず緩やかな口調で呟く。
 ことさらに穏やかな表情を浮かべている、頼忠の真意は掴めない。けれど、もしかして。
 ……気を遣ってもらっちゃったのかな。
 すぐに頭に過ぎったのは、そんな思いだ。
 頼忠さん、さりげなく、見てるから。言葉にしなくても、わかってくれちゃうから。
 思いを汲んでくれてしまう彼はやはり年上の人で、うまく隠しおおせない自分は子供だと、こんなとき思い知る。その実感は、悲しくはないのだけれど、もちろん嬉しいわけでもなくて、なんだか複雑な気分だ。
「空いてくるまで、待ってるの?」
 わたしは別に平気だよと、ほんの少しだけ強がりの混ざった言葉がこぼれる。
 嘘じゃあない。
 確かに少し、気が重い瞬間もあるけれど、耐えられないなんてことはない。その程度、受け止めようという気持ちはある。
 彼の目をまっすぐに見つめて言えるくらいには、それは本心だ。
 自分がどんな顔をしているのかはわからなかったけれど、花梨を見た頼忠は瞬間、真顔になった。けれどすぐに、穏やかな微笑が再び彼の口元を彩る。
 小さな笑い声が聞こえた後に、頼忠が少し、身を屈めてきた。
「待っていればその分、一緒いられるだろう」
 繋ぎっぱなしの手に力を込めて、彼がそっと囁く。
 その言葉に目を瞠った瞬間、すっと頭が空っぽになった。代わりに、その声音から、繋いだ指先から、手のひらから、彼の気持ちが伝わってくるのがわかった。
 離れがたい。
 その思いを溶かして、心が優しく震える。
 ―― ああ、本当に。
 心の一番奥にある願いは、余分な飾りを外してみれば、とても単純なものだ。
 周りの視線だとか、彼の思惑だとか、考えても仕方のないことに、つい振り回されてしまうけれど。簡単なひとことで、視界が拓ける。もやもやと目の前に広がっていた雲が、きれいに晴れ渡るかのように。
 じわりと沁みてくる幸福感に、花梨の唇にも笑みが浮かんだ。頼忠と目を見交わしたまま、ひとつ、頷く。
「それなら、しばらく電車、混んだままだといいな」
 少しだけ勇気を出して、とっさに浮かんだ気持ちを、そのまま素直に口にした。顔が少し熱くはなったけれど、きれいな夕焼け空の下だからきっと、ごまかせてしまうだろう。
 一呼吸分、間をおいて、頼忠が笑った。繋いだ指を深く絡めてくる彼に、花梨も負けずにきゅっと、手を握り返す。
 遙か遠くから、レールの振動する音が聞こえてきた。重なるように、ホームには電車の到着を告げるアナウンスが流れる。
 音の近づいてくるほうへと視線を投げながら花梨は、もし、と心の中で呟いた。
 もし、次の電車が空いていたとしても、もうしばらくこうしていようか。
 もし、彼が立ち上がろうとしても、その手を引っ張り返してみようか。
 そんなことを考えれば、口元に抑えきれない笑みが浮かぶ。轟音を引き連れて電車がホームに入ってくるのを視線で追いながら、いたずらめいた気持ちを忍ばせて、横目に頼忠の様子を窺った。
 やってきた電車の窓越しには、ちらほらと乗客の姿が見えている。がらがらではないけれど、混んでいるというほどでもない。
 ―― 頼忠さん、どうするのかな。
 どことなくわくわくとした気持ちを胸に、彼が動くのを待った。
 けれど、ドアが開いて乗客が降りてきても、そして待っていた人たちが電車に乗り込み始めても、頼忠は立ち上がる様子を見せない。
 やがて発車ベルが鳴って、ふたりをホームに残したまま、電車のドアが閉まった。なんとなく肩透かしを食ったような気分で、花梨はそろそろと頼忠の顔を見上げた。
 電車を見送ったのは、混んでるから、だったのか、それとも。
 わずかの間にそんなことを考えたけれど、頼忠と目を合わせた途端、花梨はつい吹き出してしまった。
 同じことを考えていたんだって、顔を見たらわかってしまったから。
 もう少しこのままでいたいと思っていたこと、そしてそれを冗談めかしたしぐさで伝えようとしていたこと。いたずらを仕掛けようとしていたのも、お互いさまだったっていうこと。
 彼もまた、瞬時に花梨の考えていたことを悟ったのだろう。肩を揺らして、おかしそうに笑っていた。
 ふたりして笑い出したら余計に愉快な気分になってしまって、花梨は必死に笑いを噛み殺す。頼忠の、めったにないほど笑み崩れた表情がおかしくて、そして嬉しくて、抑えても抑えても笑みがこみ上げてきた。心は温かくて、楽しくて、とても幸せだ。
 言葉もなくただ笑い続けるふたりの姿に、行き交う人々からは次々と怪訝な表情が向けられていた。
 けれど、心からの笑顔を浮かべる花梨には、もうそんなことはちっとも気にならなかった。

Fin.

「青色20題」は、物書きさんに20のお題よりいただきました。