磨き上げた床に、陽光が跳ね返る。ひとつ息を吐いて開け放った窓の外を見れば、秋晴れの空が目に眩しい。
 屈めていた身体を起こして、頼久は額に浮いた汗を手の甲で拭った。
 広い道場の床を、雑巾掛けすること三往復。これが毎日の日課だ。隅々まで丹念に拭き清めた頃には、心地よい疲労感と共に全身にうっすらと汗が噴き出している。それでも、夏の盛りとは違い、この頃では吹き抜ける風が心地よく身体を冷ましてくれるようになった。
 ―― ここは、現在頼久が世話になっている屋敷の一角だ。
 代々道場を開いているというこの家の主に、頼み込んで居候の身となって早二年余り。広い屋敷内の雑事を手伝いながら、師範代として稽古に出る日々にも、すっかり馴染んだ。
 家の主は、普通ならとうに隠居生活に入っている年のはずだが、長年剣道で鍛えた身体は相当頑丈なものらしい。いまだ矍鑠としていて、実際、頼久が初めてここを訪れたときは、道場で自ら稽古をつけていたほどだ。
 いかめしい顔に昔気質の性格を併せ持ち、一見すると恐そうな人物に見えるが、実のところはそうでもない。頼久のことも、そして数日おきに訪れてくるあかねや、天真、詩紋といった面々のことも気に入ってくれたらしく、まるで孫のように接してくれている。頼久たちの間にひとかたならぬ事情があることは薄々察しているようだが、細々と詮索しようとしない辺りも、内心ありがたいところだった。
(どうにか暮らしてゆけるものだな)
 ふとこれまでの道のりを思い出すたび、感慨深く思う。
 あかねの傍らにいたい一心で飛び込んだこの世界は、余りにも「京」とは隔たりすぎていて、初めのうちは不安に思うことも多々あった。覚悟だけでどうにかなるほど、日々の生活は甘いものではない。なんの足場も持たない自分が、それでも唯一頼れるこの腕を生かすことのできる道を見つけられたのは、多分に幸運が味方した面もあるのだろうが、その道にしたがって懸命に歩むうちに、自ずと居場所ができてきたように思う。
 とりわけ、ここに稽古にやってくる人々と接しているときなどは、武士団にいた頃を思い出すようで、懐かしい思いがする。この世界に来て、同じような感覚を味わうことなど思ってもみなかっただけに、それは内心、ひどく嬉しいことだった。
 今日も、あと数時間もすれば、大勢がこの道場に集まってくる。それまでに、残る掃除や雑用を済ませ、準備を整えておかねばならない。床がすっかり乾いたのを確かめると、頼久は戸締りをして道場を後にした。

 母屋に戻ると、ちょうどこちらも一通りの掃除が終わったらしい。開け放っていた窓を、あかねが閉めて回っているところだった。庭先で雑巾を洗っている頼久を目ざとく見つけたあかねは、窓から身を乗り出すと頼久を呼んだ。
「道場のほう、もう終わったの?」
 はい、と頷いてみせると、「それじゃ、休憩にしよう」と言うなり、身を翻した。年代物の廊下をきしませて向かう先は、台所だろうか。
 片付けを終えた頼久が、自らの居室に落ち着いたところへ、間合いを計ったかのようにあかねが盆を持って現れた。動き回って火照った身体を冷ますためか、涼しげに氷の鳴る器の中身は冷茶のようだ。
 日曜の午前、こうしてこの屋敷の掃除を手伝うのは、すでにあかねにとって決まりごとになっているらしい。初めは彼女に手伝わせるなどとんでもないと思ったものだが、強硬に押し切られてからというものは、異論を唱えることは止めた。手分けしたほうが早いという彼女の言い分に実際分があったということもあるし、言い出したら引かない彼女の性格がすっかりわかっていたから、というのもある。
 屋敷の主は、時折まるで気まぐれのようにふたりを手伝うこともあったが、大抵は自室で書物を読んでいるか、あるいは今日のように朝から外出しているかといった具合だ。そのような日は、掃除などの雑事が終わってから午後の稽古までの時間を、自室であかねとふたりで過ごすことにしていた。自分の側には、自由になる時間はかなりあるが、さりとてふたりきりでいられる時間というのは、そう多くはない。それだけに、この休日のひとときというのは貴重なものだった。
 ―― あのふたりが初めてここを訪れてきたのも、ちょうどこんなときだったなと、よく冷えた茶を啜りながらふと思い出した。今よりももっと蒸し暑い、夏の盛りに向かう季節に、その「再会」は起こったのだ。

 地図を頼りに辿り着いたそこは、立派な門構えの屋敷だった。確かめた表札は、いかにも由緒のありそうな木彫りの大きなものだ。
「すごく広そう……だよね」
 隣に並んだ花梨が気圧されたように呟いたのも無理はないだろう。京にあった貴族の屋敷とは比べるべくもないが、こちらの一般的な住宅事情に照らし合わせれば、段違いの規模と見えた。
 古めかしい門の周囲には、呼び鈴のようなものはない。母屋がすぐそこであれば声を掛けてみることも考えられたが、門前から案内を請うには少々距離があった。母屋の玄関先まで行ってみたほうが良いだろうと判断して、頼忠は重い門扉を押し開けた。
 敷石を踏みながら玄関先まで辿り着いて、改めて屋敷を眺める。間口の広い平屋は、門と同じく見れば見るほど年代物だ。横手に目を遣れば、もうひとつ大きな建物がある。おそらくは、稽古が行われる道場だろう。
 辺りは静かで、家の中からも物音は聞こえてこない。留守だとすれば、後日出直さねばならないだろう。そう考えながら、ひとまず戸を叩き、中に声を掛けてみた。
 幸いにして、留守ではなかったらしい。一呼吸置いて、屋内から返答があった。はい、と答えたのは女性の声で、軽い足音が奥のほうから近付いてきた。
 がらりと音を立てて、戸が引き開けられる。顔を覗かせた少女は、途端に「あっ」と声を上げて目を丸くした。
 驚いたのは、こちらも同じだ。隣に立つ花梨も同様らしく、息を呑む気配が伝わってくる。
 応対に出てきた少女の顔には、見覚えがあった。しかも、かなり特殊な理由で、だ。挨拶すら交わしたこともない相手のことを、これほど良く覚えている理由は ――
「あかね?」
 そう言って少女の後ろから姿を現した青年に他ならない。
 立っていたのは、予想通りの人物。頼忠に「瓜ふたつ」だと、花梨が評していた青年だった。

 以前にこのふたりと逢ったのは、賑わう年の瀬の街中だった。一瞬のすれ違いに、何か引っ掛かるものを覚えて足を止めた。それは向こうも同じだったのだろう、振り向いて互いの姿を凝視してしまったことを、今でも覚えている。言葉を交わすこともなかったが、彼らの印象は鮮やかに残り続けていた。
 それだけの強い印象を刻んだのは、自分とこの青年とが似ているという点と、それからもうひとつ。このふたりが身に纏っている気配だ。自分たちと同じように、彼らも神子と八葉であったのかもしれないと、その夜、花梨と話し合った。
 あれ以来、特にこのふたりを気に懸けたことはなかったが、このような形で再び見えることになろうとは予想だにしなかった。
 向き合った青年を、頼忠は改めて具に眺めた。見れば見るほどに、なるほど良く似ていると評されるわけだと納得がいった。
 それと同時に、彼が八葉であったのではないかという確信もまた、深まった。
 気配が、違うのだ。この世界に生まれ育った者たちとは、向けられる視線の鋭さが違う。警戒心とでも言えば良いのだろうか ―― 意識せずとも相手の腕を推し量っているような視線は、一朝一夕に備わるものではない。
 おそらくは自分も今、同じような目つきをしていることだろう。武士たる者の性だ。その自分と相通じる雰囲気を持っているとなれば、この青年の素性も自ずと知れる。逆もまた然り、この青年にも、自分の出自は察しが付いたに違いない。
 互いに気配を探りあう沈黙は、少女の声で破られた。
「……とにかく、どうぞ上がってください」
 見れば、少女はすでに落ち着いた様子を見せている。戸口に出てきたときには驚いて二の句が継げない様子だったが、いち早く気を取り直したらしい。笑みを覗かせると、中に入るようにと仕草で促してきた。
 それで我に返ったのか、少女の後を追うように隣の青年も微かに表情を和らげた。「これは失礼を致しました」と軽く頭を下げ、通り道を作るように一歩引いた。
 剣道の稽古の話をしに来たはずが、随分と予想外の運びになったものだ。そう思いはしたが、身近なところに自分以外にも「京」の人間がいるなら、話をしてみたいという気は確かにある。この招きを断る理由はなかった。
 花梨に視線を遣ると、彼女も一時の驚きは収まったようで、首を傾げるようないつもの仕草で頼忠を見上げていた。家に上がらせてもらおう、と目線で促すと、わかったというように大きな瞳を瞬かせる。それを確かめて、頼忠は一歩、戸口の中へと歩を進めた。

 何にしても、話をしてみないことには始まらない。
 客人を案内して廊下を歩きながら、頼久はこれからの成り行きを思案していた。
 先ほどの驚いた様子から考えると、ふたりは単に道場を訪ねてきただけだろうと思えた。しかし、こうして顔を合わせてしまった以上、互いの考えていることに触れないのは不自然極まりないだろう。
 落ち着いて話をするためにふたりを通したのは、家の端に近い、奥まった部屋だった。道場にも近い位置にあるこの部屋は、頼久が家主から宛がわれた居室だ。さほど大きくない座卓が一台と、これまたあまり大きくはない書棚とが置かれているのみの、殺風景な部屋である。
 それでも、座卓の周りに座布団を並べて四人が腰を下ろすと、少々窮屈に感じた。もっともそれは、どことなく緊張感漂う空気も手伝ってのことかもしれないが。
「お茶でも淹れてきますね」
 そう言ってあかねが姿を消すと、後には沈黙が残った。
 正面に座した青年は、なにやら思案するように軽く視線を落としたまま、身じろぎひとつしない。その隣に座る少女は、時折青年のほうに視線を向けながらも、やはり口を開く様子はなかった。
 見るほどに、やはりこの少女も、どこかあかねに似ていると思う。容姿というよりは、雰囲気の相似だ。
 神子だった頃ほどではないにしても、頼久の見る限り、今でもあかねにはどこか龍神に繋がる神気のようなものが感じられる。明確に言葉にできる類のものではないが、八葉の任にあった者としての勘が、時折思い出したように、それを訴えてくる。この少女にも、同じような何かがあると、その「勘」が言うのだ。
 青年のほうは、もっとわかりやすい。冷静になって見れば、気配を明確に感じ取れた。八葉であったことは間違いないだろうし、さらに言えば、その気はおそらく『巽』。自分と同じく、天の青龍を任じられていた者だろうと窺えた。
 そしてまた、京での立場も、自分と似通ったものだったことだろう。物腰や気配から、武人として鍛錬を積んだ者だと知れた。なにやら因縁めいたものを感じずにはいられない。
 ほどなく、襖が開いてあかねが戻ってきた。湯飲みが置かれると、客人ふたりはそれぞれに礼を述べた。青年のほうはほとんど表情を動かさなかったが、少女はどことなく安堵したような表情を浮かべている。やはり、この空気は少々気詰まりだったのだろう。
 頼久と自分の分も湯飲みを並べてあかねが腰を下ろすと、再び沈黙が戻った。ひとまずは客人が用件を切り出すのを待つべきだろうと思ったが、ふたりはまだ、話を始める気配を見せない。先ほどから感じていたことではあったが、どうやらこの青年は、口数が少ない辺りまでも自分と共通しているらしい。
 少女は相変わらず、青年の様子を窺っている様子だ。首を傾げた姿勢のまま、口を挟むでもなくじっと待っている辺り、この場は青年に任せているといったところなのだろう。
 しばらく黙っていた青年が、つと視線を上げた。その動きにつられて、頼久も含めた三人の視線が一斉に、青年の顔に注がれた。
 動じるでもなく正面の頼久にひたと視線を据えて、その青年は口を開いた。
「失礼ですが……八葉、という言葉に、お心当たりはありますか?」

 頼忠が「八葉」と口にした途端、目の前のふたりが顔を見合わせた。その様子に、やはりと内心で頷く。ふたりの顔に浮かんだ表情は、明らかにその言葉を知っている者のそれだ。
 もっとも、こちらがその話を切り出すのは、相手にとっても予想の範疇だったことだろう。しばし目線を取り交わしていたが、すぐに頼忠のほうへと向き直った。
「ということは、やはりあなたがたも……ですか?」
 皆まで言われずとも、言葉の意味は汲み取れた。あなたがた、という言い方から、この青年が八葉であったということだけではなく、少女が龍神の神子であったこと、そして花梨が神子だったとふたりが気付いていることも、窺い知れた。
 だとすれば、後は単刀直入に話を進めるだけだ。はい、とひとつ頷いて、「改めまして、源頼忠と申します」と名乗ると、軽く頭を下げた。
 頼忠の言葉に、先に反応したのは少女のほうだった。
「やっぱり、源……さん、なんですね」
 感心したような少女の声を引き取って、隣の青年が「私は源頼久と申します」と後を続けた。
「わあ、名前まで似てるんだ」
 今度驚いたような声を上げたのは、花梨だ。目を丸くしている花梨に、正面の少女が笑い掛けた。
「私は、元宮あかねと言います」
「あ、あの、わたしは高倉花梨です」
 慌てたように名乗った花梨が、よろしくお願いしますと頭を下げる。
 これで一応の挨拶は済んだ。改めて姿勢を正すと、頼忠はまず、本来の用件を切り出した。

 ―― ことの起こりは、二週間ほど前のことだった。
 秋の初めにこの世界に足を踏み入れ、年明けからほどなくして仕事を始めた頼忠だが、こちらでの生活もこの夏を越えればそろそろ一年、気持ちの上でもそれなりの余裕ができてきた。そうなると、欲もいろいろと出てくるものだ。
 仕事柄、事務所に紹介してもらったジムに通って身体を動かしてはいたが、それだけでは物足りないと感じるようになった。もともと武芸の鍛錬が習慣として身に付いている故だろうか、ジムの器具を使った運動にはそれほど馴染めず、京にいた頃と近い形で剣を振るえないものだろうかと思い始めた。
 自宅からさほど遠くない範囲で、どこか剣道の稽古ができるところはないだろうかと探していたところ、小耳に挟んだのが、今訪れている道場の噂だ。
 道場の主はすでに、半ば隠居生活に入ったほどの高齢だが、そこに通ってくるものは、下は小学生から上は四十、五十代といった状態で、頼忠と同年代の者もそこそこにいるらしかった。聞けば、現在稽古をつけているのは、頼忠と同じ年頃の者だとも言う。
 場所も歩いて通える範囲と良い条件だったことから、とりあえず話を聞きに行ってみようということで、週末の今日、花梨を伴って件の道場を訪れてみた。そして来てみれば、以前に顔を見たことのあるこのふたりがいた、という次第だ。

「……じゃあやっぱり、あかねさんと頼久さんは、『百年前の神子と八葉』だったんですね」
 ひとしきり話を聞いて、花梨が納得したように大きく頷いた。
 本題を軽く済ませたところで、当然ながら共通の話題へと話が及んだ。互いの話を突き合わせて考えたところによれば、どうやら目の前のふたりが、京で噂されていた「百年前の神子と八葉」であるらしい。
 先ほどそのことを伝えてからというものの、頼久とあかねは頻りに困惑した顔を見せている。巷間に流布していた噂の数々を聞かせると、「そんな大げさな」とふたり揃って居心地の悪そうな表情を見せた。
 もっとも、その気持ちは頼忠にも察することができる。
 噂というのは、伝わるほどに大きくなっていくものだ。花梨や自分、そして今も京にいる八葉たちのことにしても、数十年、数百年の後にどのような話が伝わっていくのか、わかったものではない。「百年前」の噂を耳にしていたときは他人事と思っていたが、自分が同じ立場に置かれるとなると、なにやら奇妙な気分になるのは確かだ。
 四人の中にいつしか連帯感のようなものが生まれたのは、その辺りも手伝ってのことだったのかもしれない。京について、互いに知っていること、知らないこと、様々に話した今は、すでに打ち解けた気持ちが生じ始めている。
 頼忠と花梨にとって初めての、「京」の記憶を共有できる相手が、目の前のふたりだ。親近感が湧くのも自然なことだろう。
 結局、本来の用件以外の話に長い時間を費やして、ようやく腰を上げた頃には、すでに日が傾き始めていた。稽古に参加する話は、ひとまず次回、見学に来るということで、すんなりとまとまったのだ。
『稽古以外の日でも、いつでもいらしてください』
『そうそう、京の話も、もっと聞きたいし』
 口々に言いながら、ふたりは頼忠と花梨を見送ってくれた。
 ―― その日から、もう一組の「神子と八葉」との交流が始まったのだった。

 彼らとの「再会」から、すでに二月ほどが過ぎた。頼忠たちが訪ねてきたのは、夏の盛りに向かう季節だったが、今は秋風の吹く時期だ。
 ―― 稽古を見学に来た頼忠は、その後すぐに入門の手続きを取った。仕事が不規則なために、定例の稽古には参加できないこともあったが、その代わりに時間があるときにはひとりでやってくる。頼久も、頼まれて手合わせすることがあった。
 真剣を扱うことに慣れていた彼は、頼久と同様、最初の頃こそ竹刀の軽さに馴染めなかったようだが、やはり素質だろうか、馴れるとともに急速に腕を上げた。竹刀の扱いさえ身体で覚えこんでしまえば、相手の隙を見抜く眼力は、大抵の者より鋭い。実戦で積んできた経験は伊達ではない、というところだろう。すでに、以前から道場にいた者たちと立ち合っても遜色ない腕になっている。稽古の最後には試合を行うのが常なのだが、今日も頼忠は、相手から二本取って勝ちを収めていた。
 道場では、頼久と頼忠は親戚だということで通っているだけに、周囲にはやはり血筋だろうかなどと言われている。その話をあかねに聞かせると、どこか可笑しそうな表情を見せた。
「確かに、親戚ではあるんでしょう? すごい遠縁だろうけど」
「……そうですね、正確なところはわかりませんが」
 系譜を辿れば、どこかでは繋がっているかもしれない。確かめる術はないが。
「ねえ、頼久さんと頼忠さんだと、どっちが強いの?」
 不意にあかねが、いたずらめかした表情で問いかけてきた。覗き込んでくる視線で、面白がっているとわかる。
 だが生憎と、その質問に対しては答えを迷う余地がない。彼女を見返す笑みが不敵なものになるのは、その所為だ。
「相手が頼忠殿とは言え、負けはしません」
 言い切ると、あかねが目を瞠る。「強気だね」と返してきた彼女がいささか驚いた顔をしていたもので、つい破顔させられた。
「……ですが、同じことを聞かれれば、頼忠殿もおそらく私と同じように答えるだろうと思います」
「そうなの?」
 再び不思議そうな表情を覗かせた彼女に、笑いながら「はい」と頷いた。
 もちろん、頼忠本人に聞いたことがあるわけではない。それでも確信を持てるのは、武士という共通の過去ゆえか、それとも天の青龍という立場を同じくしていたゆえか。
 どちらが真の理由なのかなどということは、わからない。あるいは、ふたつに分かつことなどできないのかもしれない。
 わかるのはただひとつ、己が「神子」に向ける、想いの深さだ。
 頼忠は八葉の任に就く以前の過去についてあまり多くを語らず、それは自分も同じことだ。しかし、ふとした言葉の端々や表情などから、彼もまた、自分と同じような重荷を自らに課していたのではないかと思うことがあった。
 いつだったか、偶然にも頼忠の背中を目にしたことがあった。思わず凝視してしまったのは、そこに残る傷跡の所為だ。一目で刀傷と知れるそれは、頼久にしてもあまり目にしたことがないほどに大きなものだった。
 戦いの最中にこれほどの傷を負えば、十中八九、命取りになるのではないか。そう問いかけたとき、頼忠から返ってきたのは曖昧な表情だった。ただ一言、「古い傷だ」と告げて、視線を外した。
 そのときに垣間見えたのは、紛れもなく自分と同種の悔恨だった。いつまでも、悔やんでも悔やみきれぬものがそこに刻まれているのだと、察しが付いた。
 なればこそ、わかる。その闇に光を投げかけた存在の、かけがえのなさ、愛しさを。そして、何ものにも代えがたいたったひとりの人を守りたいと、どれほど強く願っているかも。
「ですから、相手が誰であろうとも、どのような場であろうとも、『負ける』などとは口にできないのです」
 見下ろす視線の先で、あかねが静かに微笑んだ。その笑みこそが、自分をこの場所へと導いたものだ。
 喪うこと、閉ざすこと、縛ること。それらを課した運命は、再び生き直す道をもまた、与えた。
「貴女に出逢わなければ、このように生きることは叶わなかったでしょう」
 神が遣わした『神子』との邂逅は、運命の賜物。望むものを全て与えてくれた、これ以上ない天恵だ。
「もっとも貴女は、龍神の神子に選ばれたばかりに元の運命を歪められてしまったのかもしれませんが」
 自分の考えたことに、苦い笑みが零れた。あのとき、京が危機に瀕することがなかったなら、彼女が平穏な生活を送っていたことは間違いないだろう。そうであれば、今こうして、自分が彼女と話すようなこともなかったのだ。
 しかし、頼久の言葉に、あかねは静かに頭を振った。
「そうじゃなくて、きっと私にとっても、それが運命だったんだよ」
 視線を落とした彼女は、「この世界にいたら知らなかったはずのことが、京にはたくさんあったから」と穏やかに呟いた。
「それを見て、知って、考える機会を、神様が用意してくれたんだって思うの。……それから、頼久さんに逢うことも、ね」
 唇にふわりと笑みを浮かべて、あかねが見上げてきた。眼差しは、毅く、優しい。
「今はね、龍神様にも本当に感謝してるの。頼久さんに逢わせてくれて、ありがとうって」
 その微笑に、ただ心が温かくなる。得難い幸福を手に入れたのだと確かめて、胸が詰まるほど、愛しさばかりが自分を満たす。
「感謝の思いでしたら、貴女には負けません」
 囁いた言葉に、先ほどのやり取りを思い出したのか、あかねが小さく声を立てて笑った。頼久さんってば、と目元を緩ませる彼女につられて、頼久もまた、表情を崩す。
 笑みを交わした後で、どちらからともなく指を触れ合わせた。あかねの瞳を覗き込むと、意味を悟ったように、身体を寄り添わせてくる。耳元にかかる髪を掻き揚げると、安心したように彼女は目を閉じた。
 触れた唇から伝わる温もり。それこそが、新たに手に入れた未来の証だ。

 稽古後の片付けまで手伝い終えて頼忠が道場を後にしたのは、そろそろ日の傾き始める刻限だった。途中から見学に来ていた花梨と並んで門を出ると、足元に影が伸びている。
 頼忠さん、と声を掛けられて隣を見ると、花梨が下から顔を覗きこんできた。
「試合、どうだった?」
 彼女が言っているのは、稽古の最後に行われた紅白試合のことだろう。その頃には花梨も道場に来ていたから、結果はわかっているはずだが、試合の感触を尋ねているのだろうと判断して頼忠は口を開いた。
「まずまず……といったところだな」
「勝ったのに?」
 頼忠の答えに、花梨が目を丸くする。点数辛いね、と首を傾げた。その様子を横目で見遣って、口の端に笑みを上らせた。
「もっと強い相手と当たっていたら、易々とは勝てなかったかもしれないな」
 口にした言葉は、半ば本心ではない。だが、彼女のほうは真に受けたようで、「負けたかもしれない……ってこと?」と再び不思議そうな表情を見せた。その素直な反応に、つい苦笑が零れる。
「いや、負ける気はしないな」
 本音から出た言葉に、花梨は「やっぱり」と笑った。
「自信、あるんだ?」
 いたずらめいた表情は、彼女がよく覗かせるものだ。この表情を向けられると、面白いもので、こちらも同じことをしてやりたくなる。
 殊更に不敵な笑みを浮かべて、当然だろう、と言葉を返した。「当然?」と身を乗り出してくる彼女の反応も、予想通りだ。
 立ち止まって、勿体をつけるように花梨の顔を見詰めた。深い笑みを注ぐと、彼女が忙しなく目を瞬かせる。仕草に促されて、ようやく口を開いた。
「花梨の見ている前で負けるわけがないだろう」
 どんな反応が返ってくるかと見ていると、また幾度か瞬きをして、花梨は「もう」と拗ねたように呟いた。頼忠としては本音なのだが、からかわれたように感じたらしい。軽く頬を膨らませている。しかし、その頬に僅かに赤みが差しているところを見ると、照れ隠しの仕草でもあるようだった。
 軽く腕を叩いてきた花梨を、そのまま好きにさせていると、不意にそのまま腕に掴まってきた。前触れのない動きに少々驚きながら見下ろせば、はにかんだ彼女の笑みがあった。
 酩酊感にも似たものを覚えるのは、こんなときだ。瞬間、周囲の景色を忘れる。
「……どうしたの?」
 尋ねながら、花梨が手に力を込める。その感触を確かに感じ取りながら、それでもなお、思うことがある。
「まだ時折、夢でも見ているような気になる」
 人を殺すために鍛錬を積んでいた、京での日常。それがこの世界では、同じ『刀』を手にしながらも、これほど平穏に生きている。愛しい存在が傍らにあり、望むものは全て、ここにある。
 これは夢か、それとも現なのか。現だとすれば、そのようなことが許されるのだろうかと、考えるときがある。今の生活を幸福と感じれば感じるほど、これは自分だけが見ている都合の良い夢なのではないかと、心のどこかでふと思う。いつかは醒める、夢なのではないかと。
「……夢なんかじゃ、ないよ」
 囁いて、花梨が身を預けてきた。
「わたしは、ここにいるもの」
 確かめるように、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。ふわりとした動きで腕を回して抱き付いてくる。
「ここはもう、『京』じゃないから。頼忠さんの好きなように、思ったとおりに、なんでもしていいの。……もう、あなたを縛るものは、何もないから」
 身分、立場、身に負った宿業。そういったものを全て忘れて良いのだと、温もりとともに彼女が伝えてくる。胸元でくぐもる声が、身体に染み透った。
 背中に隠された傷跡を、まるでなぞるかのように、花梨がそっと撫でた。その優しい仕草に、溜息が零れるのを止められない。許される、ただそれだけではない。受け止め、受け容れようとする心の広さと柔らかさに、甘やかされて、癒される。
 夢ではないと、確かめたい。その想いはいつも、言葉より先に、身体に表れる。
 花梨の髪を梳いて、その手を項の辺りに止めた。指先に力を込めて促すと、花梨がそっと顔を上げる。息を詰めた彼女は少し照れた表情をしていて、見下ろす自分の顔には自然と深い笑みが浮かんだ。
 顔を寄せると、花梨が目を閉じる。強い西陽に照らされたその顔を隠すように、頼忠はゆっくりと上体を屈めた。

 ―― 与えられたのは、試練であり僥倖。
 新たな道を切り拓け、剣に縋るしかなかった生き様を変えてみよ、と。それこそが、消えぬ記憶を負いながらなお生きる自分に、課されたものだ。
 容易なことではない。今はまだ、手にした竹刀の軽さに不安を覚える。それでも、運命の導くまま、この世界に生きてゆける。
 覚悟と誓いを胸に、そして愛しい温もりを傍らに携えて。

Fin.