照りつける日差しに、アスファルトがきらきらとまぶしい。太陽が真上から少しだけ傾いたこの時間、路面は相当な熱さなのだろう。通りの先を見やると、遠くのほうは陽炎にゆらゆらと霞んでいる。
 大きな交差点は、信号の待ち時間も長い。周りで同じように信号が変わるのを待っている人たちも、横断歩道の向こう側にいる人たちも、顔の前に手をかざして陽射しをよけたり、ぱたぱたと扇いで少しでも風を作ろうとしたりしている。それでも猛暑の今夏、体温並みの暑さの中では、そのような行動など文字通り焼け石に水というものだ。じんわりと浮かんでくる汗をハンカチで押さえながら、花梨はひとつ、溜め息をこぼした。
 通りの向かい側には、交差点に面してデパートが建っている。かなりの高さがあるから、影が延びてくれば今花梨の立っているあたりも日陰になることだろうけれど、この時間はまだまだ、建物沿いのわずかな場所だけに影ができているだけだ。
 デパートの入り口あたりは、少し奥まっているせいか、すっぽりと建物の影に覆われている。デパートの出入り口から、中で冷やされた空気が流れ出てくるため、涼を取るには良い場所なのだろう。立ち止まってひとやすみしている風情の人や、待ち合わせをしているような人が、たくさん集まっていた。
(頼忠さん、もう来てるかな)
 通りを行き交う車の向こうに、花梨は目を凝らした。背の高い彼は、人ごみの中にいても、たいていすぐに見つかるものだ。人の集まっているあたりを端から目で追っていくと、出入り口から少し離れたところに、見慣れた姿があった。影の中に入り込むように、壁に背を預けて腕組みしている姿は、職業柄というべきか、さすがに絵になっている。
 顔をこちらに向けている彼は、花梨の姿に気づいているのだろうか。ためしに胸の前で小さく手を振ってみたら、頼忠が組んでいた腕を解いて、軽く片手を上げてみせた。遠目で表情までは良く見えないけれど、たぶん、目元には笑みを浮かべているはずだ。
 ようやく信号が青に変わると、花梨は急く気持ちに押されるようにして、小走りに横断歩道を渡った。

 ふたりが並んでやってきたのは、デパートの催事場だった。夏休みに入ったこの時期、多くのデパートと同じように、ここでも浴衣の特設会場が作られていて、広い催事場にはかなりの数の浴衣が揃えられているということだ。エスカレーターを上りきって、会場が見えてきただけで、浮かれる気分に自然と足も速くなる。
 そもそも、今日浴衣を見に来たのは、単なるひやかしではなくて、理由がある。
『旅行に行かないか?』
 そんなふうに頼忠が切り出したのは、つい先日のことだった。夏の間も仕事で忙しい頼忠が、それでも下旬になれば時間が取れるから、ということで持ちかけてきた話だった。
 頼忠が、モデルという仕事を始めて約一年半。初めの頃は仕事の量ももちろん少なくて時間を持て余し気味だったようだけれど、ことにここ数ヶ月、頼忠はずいぶんと忙しい。仕事が順調で、彼の写真が人目に触れる機会が多くなったのは喜ぶべきことだと思うのだけれど、撮影が立て込んでくると、ふたりの時間が合わなくて一週間、二週間と顔を合わせることもできないというのはざらだ。花梨が夏休みの間も、頼忠のほうはそんな状況が続くようで、あまり会うことができないのだろうと寂しく思っていた矢先だったから、旅行の話を聞いて、花梨は一も二もなくうなずいた。
 嬉しさを隠し切れなくて、『いつ? どこに行くの?』と立て続けに質問を浴びせたら、彼には笑われてしまった。それでも、話を持ち出した時点で、すでに彼の頭の中にはおおよその予定が立っていたらしく、日程、行き先、泊まるところなど、すらすらと説明してくれた。宿泊の候補にしていた旅館にもすぐに電話を入れてみたところ、運良く部屋が空いていたことで、旅行の計画は、そのままあっさりと決まった。
 聞けば、この旅館のことを教えてくれたのは、頼忠が仕事を始めて以来ずっとマネージメントをしてくれている浅野で、有名ではないものの、知る人ぞ知るという趣の、隠れ家的なところなのだそうだ。旅館の連絡先を教えてくれながら、『本当は、人にはあまり言いたくないのよ』などと笑っていたという。
 近隣に目立った観光施設はないけれど、湖や滝などの自然を楽しみながら散策するには良いところで、のんびりと過ごしたいなら間違いなく勧められる場所だということだった。旅館自体も、広い庭のあるゆったりとした造りで、平屋建ての各部屋には縁側もあって、庭を眺めながら涼むこともできるという話だ。
 花梨たちが旅行を予定している日には、ちょうどすぐ隣町で花火大会も開かれるということで、予約が取れないのではないかと心配したのだけれど、運良く部屋が空いていたのは、日ごろの行いの賜物だろうか。
 無事に部屋が取れたことを浅野に告げたところ、『せっかくだから浴衣でも着たら?』と勧められたのだけれど、手元にあったのは小さい頃に着ていたものだけで、それならとやってきたのが、今日の浴衣売り場というわけだ。
 これまで持っていた浴衣は、白地に赤や黄などの模様をあしらったもので、良く言えばかわいい、けれど逆に言えば少々子供っぽい雰囲気だった。頼忠の隣に並ぶなら、もう少し背伸びして、大人っぽいものを着てみたい。
 濃い色が良いだろうか、それとも淡い色彩のものが合うだろうか。柄は、どんなものにしようか。あれこれ考えながら、片っ端から見て歩いたけれど、数が多すぎて目移りするばかりだ。
 折よく、近づいてきた店員が「どんなものをお探しですか?」と声を掛けてきたから、落ち着いた雰囲気のものが欲しい、とだけ伝えて、見立ててもらうことにした。
「少々お待ちくださいね」
 花梨の話を聞いて笑顔でうなずいた店員が、売り場を回って戻ってきたときには、腕に何着かの浴衣を抱えていた。広げられた浴衣は、淡い桜色や薄紫などで、どれもわずかにくすんだ色合いをしている。柄の部分も同様に抑えたトーンで、一見すると、少し地味なのではないかと思うほどだった。
「ちょっと着てみましょうか」
 笑顔で促されて、花梨は鏡の前に立った。店員が、持ってきたものを順番に羽織らせて、簡単に着付けてくれる。そうして実際に身にまとってみると、先ほどは地味に見えた柄が、意外にも引き立つもので、花梨は鏡を見るたび、小さく歓声を上げた。自分だけで売り場を見て回っていたとしたら、きっとこういった柄には目を留めないだろうと思うと、人に見立ててもらう楽しさを感じられる。
 ひととおり羽織ってみたが、合わせてみるとどれも良いように思えて、迷ってしまう。ひとりでは決められそうになくて、二、三歩引いて様子を見ていた頼忠に、「どれがいいと思う?」と尋ねてみた。
 近づいてきた頼忠が、浴衣を代わる代わる手にとっては、花梨の身体に当てる。見ればずいぶんと真剣な表情で、つられて花梨まで思わず神妙な表情になってしまいそうだ。考えてみれば、かれこれ二年ほど彼と一緒にいて、着るものを選んでもらうのは初めてではないだろうか。そう思うと、ひどく新鮮な心地がした。
「……これはどうだ?」
 やがて、浴衣の一枚だけを手元に残した頼忠が、花梨の顔をのぞきこんできた。もう一度、肩に羽織らせてくれたそれは、ベージュがかった薄桃色のものだ。店員にも「良くお似合いですよ」と声を掛けられれば、花梨にももちろん、異存はない。
 少しくすんだ色の浴衣に、同じく鮮やかさを抑えた、オリーブグリーンの帯も合わせてもらった。簡単に結んでもらって、鏡の前でくるりと回ってみる。
「ね、どうかな?」
 首をかしげて尋ねれば、向かい合った頼忠もどこか満足げな表情だ。決まりだな、と笑う声を受けて、花梨も同じように笑顔を浮かべながら、鏡で幾度も自分の姿を確かめた。袖を持ち上げてみたり、帯結びのあたりを鏡に映したりしていると、旅行のこともあってか、心が浮き立ってくる。
 ふたりで顔を見合わせて笑い合っていたところへ、その場を離れていた店員が、今度は別のものを手にして戻ってきた。
「お連れの方もいかがかしら?」
 そう言って広げたのは、男物の浴衣だ。手にしているのは、遠目では無地に見えるような細かい柄の、藍色のものだった。
 どうするのかと思っていたら、頼忠は案外すんなりとうなずいて浴衣を身体に合わせた。生地は、深い蒼の中に、ごくわずかに赤の色味が混じっているのだろう。ふたり並んで鏡の前に立つと、それぞれの浴衣の色がしっくりと馴染む。
 良く合うでしょう、と言われてしまえば、そしてそれが本当のことだと思ってしまえば、こちらとしても買わないわけにはいかないだろう。結局、売り場をあとにするときには、ふたりそれぞれが大きな袋を手にすることになっていた。
 予定外の出費と言えないこともなかったけれど、旅行に行って、浴衣姿で花火を見るなんて、夏らしいことこの上ない。
「旅行、楽しみだね」
 繋いだ手を揺らしながら花梨が笑顔を向けると、見下ろす頼忠の目も、緩やかにうなずいた。

 指折り数えた旅行の当日は、幸いにも晴天に恵まれた。午前中の早いうちに出発して、電車に揺られること数時間。下りてから、さらにバスに乗ってしばらく行ったところに、目的の旅館があるという話だ。
 利用した電車の路線自体は、いくつかの観光地を通っているせいか、かなりの混雑だったけれど、この駅で降りた人はあまり多くなかった。駅を出てみれば、あたりには人影もあまり見当たらない。思わず苦笑いしてしまったのは、混んだ電車に少々辟易していたせいだ。
 乗客が全員座ることができないほどの混み具合では、もとより落ち着くわけもないのだけれど、ましてや時折、近くに立った人が頼忠の顔を見ては「あっ」とでも言いたげな表情をみせるものだから、一緒にいる花梨としては気になって仕方がなかったというわけだ。
 他人に顔を知られているという状況に、頼忠自身はずいぶんと慣れてきているようだったけれど、すれ違いざまというのならともかく、狭い電車の中で延々とその状態が続いたのは、さすがに気疲れする面があったらしい。電車を下りたとき、ほっとしたような溜め息が聞こえたのは、花梨の気のせいではなかったはずだ。その証拠に、バスを待つ間、頼忠は突然、運転免許を取ろうかなどと言い出して、花梨を驚かせた。
 そんないきさつがあっただけに、到着した旅館が構えからして賑々しくなく、落ち着いた雰囲気の漂うところだったことはふたりを安心させた。敷地に入っていくと、風の音がさやさやと聞こえるほどに静かで、それだけでもゆったりとした心地になる。出迎えてくれた女将も、とても親しみやすい雰囲気で、こういった場所に不慣れな花梨も、自然に打ち解けることができそうだった。
 早速、夜の花火大会に出かけようと思っていることと、その前に着付けをお願いできないだろうかという相談をしたところ、女将はふたつ返事で請け合ってくれた。花火大会の始まる時間と、会場までの所要時間とを教えてくれた上で、ちょうど良い時間に部屋に来てくれるという話になった。その上、花火の良く見える場所も、出かける前に教えてくれるという。
 案内された部屋も、旅館自体と同じく、やはり居心地の良さそうな雰囲気だった。ひとつの建物にすべての客室が集まっていながら、それぞれがうまい具合に離れていて、広々と庭を見渡していると、離れの部屋にでもいるような気がしてくる。ふたりで黙っていると、周囲から人の気配がまったくしないのだ。
「……いいところ教えてもらって、良かったよね」
 座卓の向かい側に視線を戻して、花梨はそっと声を掛けた。遠くを見ていた頼忠が振り返って、うなずく代わりに目元を緩める。
 最初にこの旅館の話を聞いたときは、まだ高校生の自分には敷居が高すぎるのではないかと心配する気持ちもあったけれど、こうしているとやはり、心が落ち着く。もう久しく、頼忠と一緒に出かければ他人の眼が付いてくるという状態が続いていたから、取り立ててなにをするというわけでもなく、ただふたりで一緒にいるだけ、という時間はひどく贅沢なものに思えるのだ。
 特に、ここ二、三週間ばかりは、仕事の忙しい頼忠とゆっくり会うこともできなかったから、今の嬉しさはひとしおだ。気持ちがゆっくりと解けていくほどに、心の底からふんわりと温かな気持ちが込み上げてくる。
 少しばかり甘えたい気持ちになって、花梨は座卓の上にそっと手を伸ばした。指先を彼のほうに向けて、上目遣いに顔を見上げると、視線を交わらせて彼が苦笑した。花梨が伸ばした指先を受け止めるように、長い指を絡める。きゅっと力を込めて握ると、彼も同じようにして花梨の手を引き寄せた。
 幸せだと、こんなとき、改めて思う。会えない間は寂しくて、少し切なくて、今すぐ抱き締めて欲しいなどと叶うはずもないことを思ったりもするけれど、こうして触れて、穏やかな体温を伝え合っていると、それだけで落ち着く。落ち着いて、それからふわりと溶けてしまいそうな錯覚を起こす。とりわけ、誰もいない、ふたりきりの空間では。
 自然に広がる甘い空気に身を浸しているのは、幸せで、けれどやはり照れ臭い。長い間見つめ合っていても笑みを崩さずにいられる彼の余裕は、まだまだ花梨にはないもので、先に視線を外してしまうのは、相変わらずのことだ。そしてそれを、彼が笑って見ているだろうことも。まるで決まりごとのようなやりとりが、いつも少しだけ悔しくて、そして嬉しい。
「……せっかくだから、少し外に出てこようよ」
 話を逸らすのはいつも自分で、少し意地悪く笑いながらうなずくのはいつも彼で。いつからか始まっていた、こんな他愛のない決まりごとを、ずっと続けていけたら良いなと思う。繋いだ手に力を込める瞬間、願うのはずっと先の未来だ。
 立ち上がりざま離そうとした手を、逆に強く引き寄せられた。よろけた身体を、頼忠に片腕で抱え込まれた。ふざけているのかと思って顔を見上げれば、思いのほか真摯な目がそこにあって、驚かされた。
 ―― 同じことを、ふたり思ったのだろうか。彼の視線から伝わる想いに、不思議な感覚を覚えながら、花梨は目を瞬かせる。
 同じ願いを抱いていると思える瞬間がある。ちょうど、今のように。想いを重ねる幸せに、自然と顔はほころぶ。そしてそれを映したように、彼の表情も、柔らかく緩む。
 細められた彼の目に促されて、目を閉じた。吐息が重なるまでの時間は、もう、良く知っている。それだけの時間を、共に過ごしてきた。
 これから何百回、何千回、同じことを繰り返していけますように。そんなことを思って笑みを刻んだ口元に、予想通りのタイミングで、彼の唇が重なった。

 少し早めの夕食を終えた頃には、あたりはすっかりと暗くなっていた。浴衣を着付けてもらい、ついでに花火見物の穴場も教わって宿を出ると、ひんやりとした風が吹き寄せてくる。
 花火が始まるまでにはだいぶ余裕があったから、からりころりと下駄を鳴らしながら、ゆっくりと夜道を歩いた。山の中とは言いながら、そこそこに明かりもあるし、平坦な道だったけれど、ぴったりと寄り添って、手を繋いでいた。同じ道を、やはり花火の上がるほうに向かって歩いていく人たちはちらほらいたけれど、こんな状況でいちいち他人に注意を払う人もいない。
 誰も見ていないのをいいことに、時折じゃれてふざけあった。はしゃぐ花梨にあわせて、頼忠が普段、人前では決して見せないようないたずらめいた振舞いをしていたのは、彼もまた、今夜のできごとを楽しみにしているということなのだろう。考えてみれば、去年はどこの花火大会にも行っていないから、頼忠にとって間近で花火を見るのはこれが初めてだ。花梨にしても、大規模なものは見に行ったことがないから、やはり気分が浮かれている。楽しみだねと花梨が言っては、頼忠が笑ってうなずく。そんなことを、先ほどから何度となく繰り返していた。
 道の途中で、まっすぐ会場に向かう人の流れから外れて横道に入ると、旅館で教えてもらった『穴場』はもう間もなくだった。緩くうねった坂を上りきった先は、開けて見晴らしの良い場所になっていて、隣町の花火を見るには絶好の場所なのだという。
 観光客はほとんどが、隣町の会場まで出かけていくけれど、静かに見るのなら人の少ないこちらのほうが良いとは、女将の話だ。確かに周りを見てみると、地元の住民らしき人たちがぽつぽつといるだけで、人気は少ない。
 日中なら展望台になる場所なのだろう、ベンチがいくつも据えつけられている。そのひとつに腰を落ち着けると、あとは花火の始まりを待つばかりだ。集まってきた人々も、それぞれ思い思いの場所に陣取って、団扇を片手に夜空を見上げている。
「あとどれくらいかなあ?」
 待ち遠しい思いで、花梨も花火が上がる方角を眺めやった。ふたりとも時計は置いてきたから、時間はわからない。けれどそれも、この状況でなら、のんびりとして良いものかもしれないと思えた。あと何分、と数えながら待つのもそれはそれで楽しいけれど、いつ上がるかわからない花火を待っている気分も、悪くはない。
 もっとも、待つ時間を楽しむ余裕も、この場所だからこそだろう。街中で行われるような大きな花火大会も華やかで良いとは思うけれど、こんなふうにくつろぐことは、きっとできないはずだ。おそらくは、頼忠の姿に目を留めて遠巻きに様子をうかがう人や、声を掛けてくる人などが、次から次へと出てくることだろうから。
 彼の仕事がそういうものなのだと、頭ではわかっているつもりだけれど、そんな状況に置かれたとき、わがままだと思いながらも不満を感じてしまう。望むだけ一緒にいられるわけではないのだから、隣で過ごしているときくらいは余計なことを考えずにいたいのに、と。そして、たとえ社交辞令のようなものだとわかっていても、彼が花梨から視線を外して他の人を見ている間は、寂しいと思わずにはいられない。
 独占したいと、本当はいつも、思っている。京にいて、八葉として当たり前のようにそばにいてくれたときには気づかなかったことを、この世界で、今、強く感じている。この世界に来ても変わらず、誰より花梨を特別に想ってくれていることがわかっていても、まだ心は、わがままを言いたがる。本当の自分は、ひどく欲張りだ。今は、誰にも邪魔されることなくふたりきりの時間を過ごしているというのに、遠い夜空を見ている彼の目を、自分のほうに向けさせたいなどと考えている。
 膝の上に置かれた彼の手を、不意にぎゅっと握り締めた。すぐに頼忠が振り向いて、どうしたのかと視線で問いかけてくる。なんでもない、と頭を振ったけれど、気遣わしげな目は、花梨の顔に向けられたままだ。
「なんでもないんだってば」
 まるで、ふざけて手を繋いだような素振りで、花梨はおどけた笑顔を作った。考えていることは、どうせ口に出せないのだから、笑って流してしまえばいい。
(……本当に、たいしたことじゃないんだよ)
 ただ、こうして見つめ合っている時間が、少しでも長ければいいとか、そんなことを思っているだけで。だから、そうかって言いながら、一緒に笑ってくれればいい。
 しかし、頼忠は笑わなかった。笑みを貼り付けた花梨の頬に触れて、まなざしを一層深くする。
 触れた指の温かさに、作り笑顔は簡単に剥がれ落ちた。替わりに、なぜか泣きたいような気持ちになって、まぶたがじわりと熱くなる。涙がこぼれないようにと目を瞬かせていると、花梨、と静かに名前を呼ばれた。
 なにか言いかけて、頼忠が口を閉ざす。言葉の代わりに、肩を抱き寄せられた。思わず目を瞠った花梨が、慌てて目を閉じるのを待ちかねたように、唇が重ねられる。
 浴衣が着崩れないようにと気遣ってくれているのか、背中を抱く彼の腕は緩い。けれど、触れた唇は、確かな熱を持っている。言葉にならない想いが、彼の体温とともに、身体に溶け込んでくるようだ。
(どうして、なんだろう)
 不安になるとき、切なくなるとき、こうして触れ合うだけで、揺らいでいた心は不思議なほど落ち着く。言葉はなくても、花梨を心から安心させてくれるなにかが、彼の唇には、ある。たぶん、口に出して言われるより強く、心を安らがせてくれる力を、持っている。
 顔を離したときにはもう、泣きたい気持ちは消えていて、目を合わせた彼に、今度は本当に笑顔を向けることができた。折よく夜空に大きな音が響いて、最初の花火があたりを照らすと、忘れていた楽しい気持ちが、心に戻ってきた。
 次々に開く大輪の花火を、ふたり並んで見上げた。鮮やかに咲いては消えていく華に、言葉を奪われる。
 そっと隣を見上げれば、花火を見上げる彼の横顔があった。夜空に咲く花火もきれいだけれど、それ以上に強く引き付けられるのは、閃く光に照らし出された彼の表情のほうだ。
 吹き抜ける夜風に気持ち良さそうに目を細めていた頼忠が、花梨の視線に気づいたのか、ふと振り向いた。花火に緩く解けていた表情が、花梨の視線を捕らえて一層深い笑みを上らせる。
 わたしだけのものだ、と不意に思った。彼がどれほど多くの写真に納まり、それがどれほど多くの人目に触れても、この笑顔は、どこにもない。
 鮮やかな笑みはまるで花火のように、不意に彼の顔に浮かんでは、花梨だけを照らす。けれど花火と違うのは、刹那に消えていかない確かさだ。瞳に焼き付けて思い出にしなければならない夜空の華とは違って、いつも、そばにある。
(忘れずにいよう)
 今、目にしている笑顔。感じた想い。寂しくなったときに思い出せば、幾度でも心を照らしてくれるような気がする。花火に照らされた彼の顔を、まるですぐそばにあるかのように思い出して、ほほえむことができる。きっと。
 一際高く上がった花火に、あたりから歓声が湧いた。光の華が立て続けに三つ、四つと開き、夜空を一段と明るく輝かせる。きらめく光に誘われるように、花梨も視線を夜空に向けた。
 同じように空を見上げた彼が、身を寄せてくる。その温もりに肩を預けながら、花梨は鮮やかな華を見やって、もう一度ほほえんだ。

Fin.