誰も彼もがとてもせわしなく、そして同じくらい浮き立っている、師走。
 花梨が不可思議な異世界 ―― 京と呼ばれるみやこ ―― から戻ってきて、すでに三月あまりが過ぎていた。
 あと数日で新しい年を迎えるという、年の瀬も押し迫ったある一日。
 大掃除やら新年の準備やらと、人々はみな大忙しだ。
 だが、街を行き交う人の数がやたらと多いのは、そのせいばかりではない。
 今日の日付は、十二月二十四日。
 あちらこちらに仲睦まじいカップルが散っている今日は、天下無敵のクリスマス・イブ、なのである。

「ありがとうございましたー!」と元気の良い店員の声に送られて店を出ると、通りに立つ街灯にちょうど灯かりが点いた。
 目線を少し上げると、陽が落ちた空はオレンジ色から藍色へと絶妙なグラデーションを見せている。
 今は何時ごろだろう、と何気なく腕の時計に目を落として、花梨はぱちぱちと目を瞬かせた。
「うわぁ、いつの間にかこんな時間」
 時計の針は、もうすぐ五時を差そうとしている。
 この店に入った時間を正確に覚えてはいないが、五分、十分ではなかったことは間違いない。
 うーん、と眉を寄せて花梨が小さく唸ると、隣から少しばかり疲れたような声が降ってきた。
「ずいぶんと並んだからな」
 同じように時計を見ていた頼忠が、花梨の両腕にすっぽり収まった箱へと視線を移す。
 花梨が大事に抱えている白い箱には、いかにもクリスマスらしく赤と緑と、そして金色のリボン。
 そのリボンをよくよく見れば、さきほどまでふたりがいたケーキ店の名前がプリントされている。
「やっぱり、美味しいって評判のお店だけあるよね」
 現金なもので、箱の中身を思い浮かべると、途端に頬が緩んでしまう。
 二人用のケーキは決して大きなものではないが、少しばかり洒落たデコレーションのケーキは、思い出すだけでも幸せな気分を運んでくれる。
 大事に抱えた箱をにこにこと見つめていると、隣で頼忠が小さく笑った。
「花梨は本当に甘いものが好きだな」
「うん、やっぱりそれは女の子の特権。……あ、でもこのケーキ、甘さ控えめなんだって。だから頼忠さんも食べられると思うよ」
 くるりと頼忠を見上げると、頼忠が微笑み返してきた。
 その目が嬉しそうに見えるのは、おそらく花梨の思い過ごしではないだろう。
(頼忠さんも嬉しいのかな? こういうの)
 そう思うと、幸せな気持ちはますます膨らむ。
「だから、後で一緒に食べようね」
 少しだけ照れながら告げた言葉に、頼忠が「ああ」と答えたのをきっかけにして、ふたりはふたたび雑踏に紛れ込んだ。

 すっかりライトアップされた街は、日が暮れる前とはずいぶん違った表情をしている。
 花梨にとっては毎年恒例の光景だが、今年が初めての頼忠にとっては目新しいものばかりらしい。
 ときおり隣を見上げて視線を追うと、あちらの店先、こちらの通行人、と頼忠にしては珍しくきょろきょろと目を移している。
「おもしろいもの、あった?」
 歩調は緩めないままに聞いてみると、頼忠の口元が小さく笑った。
 興味深げに辺りを見回す視線はそのままで、少しばかり感動したような声が花梨に答えた。
「そうだな……自分では、ずいぶんとこちらにも慣れたつもりでいたが、こうしていると新鮮なものばかりだ」
 生真面目な彼らしい台詞の中に、自戒するような響きが混じっている。
(慣れたと思って気を緩めていては、なんて考えてるのかな)
 真っ直ぐで真面目な頼忠の考えは、花梨にでも容易に予測がつく。
 そしてそれが大体において当たっていることは、今までの経験で立証済みだ。
 花梨はケーキの箱から片手を離すと、頼忠のコートの袖をくいくいと引いた。
 自分の方に注意を向けさせてから口を開く。
「でも頼忠さん、あっと言う間にこっちの生活に順応しちゃったじゃない。私、本当のこと言うと、もっと大変だと思ってた」
「そうか? だが、花梨が京に来たときも、慣れるまでにそれほど時間はかからなかっただろう。同じようなものだと思うが……」
「ううん、ずいぶん違うと思うよ」
 花梨が小さく首を振ると、頼忠が訝しげな視線を返してきた。
「前にちょっとだけ言ったけど、こっちの昔の世界と京って、かなり似てるみたいなの。それで、私はそういうこと、なんとなくだけど知ってたから、そんなにびっくりしなかったんだと思うの。でも、頼忠さんは本当になんにも知らない状態で来たでしょう? それなのに、すごいなあって」
 真剣な顔で聞いていた頼忠は、花梨が口を閉じると柔らかに表情を変えた。
 少し目を細めて表情を和ませるのは、嬉しいことを告げるときの彼の癖だ。
「花梨が側でいろいろと教えてくれたからだろう」
 優しく甘い声がそっとそんなふうに囁くから、花梨としてはどうしようもなく照れてしまう。
 赤くなった顔を隠すように、首を振りながらさりげなく前髪を落とした。
「……頼忠さんが、がんばってるんだよ」
 それは、本心からの言葉だ。
「私が教えてあげられたことなんて、ほんの少しだけだもん。いろんなこと見たり聞いたりしようって……今だって、がんばってる、でしょう?」
 華やかな街中を物珍しげに見回していた、さきほどの目を思い出す。
 この世界の知識を取り込み、自分をここに馴染ませていこうと、今でも頼忠は真摯に辺りを観察することをやめない。
 ── 初めてこの世界に降り立った日、降り立ったその瞬間から。

 下校途中の懐かしい道に戻ってきて、周囲を見回した花梨が頼忠を見つけたとき。
 頼忠は軽く目を見開いて、立ち並ぶ家並みを、光るアスファルトの先を見やっていた。
「頼忠さん!」
 名前を呼んで駆け寄ったとき、頼忠の目がふっと和らいだことを、その一瞬を、花梨はよく覚えている。
 心の底から安堵した、という目だった。
 同時に、その陰に見えたのは……不安と、恐怖。
 未知の世界に対する、本能的なおそれ。
 けれど、頼忠が花梨の前でそんな目を見せたのは、そのときだけだった。
「神子殿……」
 一言呟いたあとには、頼忠の目はすっかり表情を変えていた。
 冷静さと落ち着きと、そしてここで生きていくという強い意志。
 覚悟を決めた ── そんな目で、彼は今日までこの世界で生活してきた。

(街の景色が全然違うことにも、すぐに慣れちゃった)
(京とはずいぶん違う生活習慣も、いつの間にか覚えちゃった)
 わけがわからないまま手にした電話も、数日後に花梨がかけたときにはちゃんと出てくれた。
 おそらくは、かけ方だってあっという間に覚えてしまったのだろう。
(でも、ずっとずっと……つい最近まで、私にかけてきたことはなかったな)
 わからないことだってたくさんあったはずなのに。
 そんなときに聞ける相手なんて、自分以外にいなかったはずなのに。
(独りでなんとかしようとして……本当にそうしちゃってたよね)
 決して、花梨に頼ろうとはしない頼忠に、
『もっと私に頼ってくれたっていいのに。甘えてくれていいのに』
 そう言いたいと思ったことも、一度ならずあった。
 何度も何度も、その言葉が喉をついて出そうになった。
 でも、自分には本当に大したことなどできないとわかっていたから。
 それに、自分の力で生きていこうと努力している頼忠にそんなことは言えないと思ったから、それは言わなかった。
(だからせめて、一緒にいるの)
 ふたりきりでいるときだけは、いつも張りつめている頼忠の気が、柔らかく緩んでいるように思えるから。
 安心してくつろいでいる、その顔が見たくて、花梨は足繁く頼忠のもとを訪れている。
 他愛のない話でいい。
(一緒にいるのが一番大切なこと、だよね)
 そっと首を巡らせて、花梨は斜め上を振り仰ぐ。
 長い長い時を超えてここにいる、その人の顔を見つめる。
 気配に気づいたのか、頼忠がふと花梨を振り返った。
「どうした?」
 優しい声に、花梨は小さくかぶりを振って頼忠の腕を取った。
 抱えたケーキの箱を落とさないように気をつけながら、腕と腕とを絡める。
 少し丸くなった頼忠の目に照れを隠すような笑みを返して、花梨は頼忠の方に身体を寄せた。
 しっかりと腕につかまって歩くのは、ちょっとだけ照れくさくて、けれど、とてもとても幸せな気持ちになる。
 厚いコート越しでもかすかにぬくもりが伝わってくるような気がして、花梨は絡めた腕にもう少しだけ力を込めた。

 ── 同じリズムで動いていたふたりの足が止まったのは、ほとんど同時だった。
(あれ……?)
 立ち止まったまま、花梨は眉間に小さくしわを寄せて考え込んでしまった。
 今、足を止めた理由が、すぐには思い浮かばなかったのだ。
 なにか物珍しいものを見たわけでもない。
 おかしな音を聞いたわけでもない。
 一瞬前の記憶を注意深く巻き戻してみようとするが、とりたててなにもなかったようにしか思えない。
「今、なにか……」
 頼忠の呟く声が耳に入って、花梨は顔を上げた。
 斜め上に視線をやると、頼忠もなにやら真剣な顔で考え込んでいる。
 花梨が真面目な顔で見上げていることに気づくと、頼忠は花梨を歩道の端へと促した。
 通行の邪魔にならないように人の流れを外れ、改めてふたりは顔を見合わせる。
「頼忠さんも、なにか感じた?」
「ああ」
 答える頼忠の顔は、変わらず神妙なままだ。
 意識を集中させるかのように宙の一点に視線を据えていた頼忠が、ふと瞼を降ろした。
「頼忠さん?」
 花梨の呼びかけに、数秒経ってから頼忠はぽつりと呟きを返した。
「気が……」
「え?」
 意味がわからずに目を丸くする花梨の前で、頼忠がふたたび目を開ける。
 そして頼忠は、ゆっくりと後方へ首を巡らせた。
 今までふたりが歩いてきたその方向からは、今もたくさんの人が歩いてきては通り過ぎてゆく。
 花梨も頼忠を追って後ろを振り返り……。
 そこで、自分たちと同じように人の流れを避けて立ち止まっている二人組を、視界に捉えたのだった。

「そっくり……」
 思わずそう呟いて、あかねはぱちぱちと目を瞬かせた。
 それからもう一度、隣に立つ頼久の顔と、数メートル先に立っている青年の顔とを見比べる。
 薄暗い中だったが、街灯に照らされた人影ははっきりと見て取れた。
 背の丈も、ちょうど頼久と同じぐらいか。
 見れば見るほど、とても他人とは思えないほど頼久と似通った面立ちをした人だ。
(まるで双子みたい)
 そんなことを考えていると、その青年の視線があかねの方を向いた。
 訝るようなその視線に、自分が不躾なほどまじまじとその人を観察してしまっていたことに気づく。
 あかねは慌てて目線を外し ── その先に、少女の顔を見つけた。
 青年に寄り添うようにして立っている少女は、自分と同じぐらいの年齢だろう。
 視線を注がれていることに気づいたのか、少女があかねと視線を合わせる。
 少しだけ不思議そうな表情を見せたその少女は、すぐにあかねに向かってにこりと笑いかけてきた。
(なんだか感じのいい子だな)
 明るい笑顔がなぜだか親近感をもたらして、あかねの頬にも自然と笑みが浮かぶ。
 少しの間、ふたりはそうして笑顔を交わしていたが、やがてその少女はあかねから視線を外して傍らの青年に目を移した。
 腕を引いてなにか話しかけ、それからまた、ふたり揃ってこちらを向く。
 そして、少女がまるで代表とでもいうように、こちらに向かってぺこりと頭を下げた。
 その拍子に、少女の腕に抱えられた箱が落ちそうになる。
「あっ」
 一瞬、あかねまでもが息を呑んでしまったが、とっさに伸ばされた青年の手が箱を支えた。
 ふたりはほっとしたように顔を見合わせ、一言二言、言葉を交わして笑いあう。
 それから、一部始終を見ていたあかねたちに気づいたのか、少女は照れ隠しのようにこちらにちょっと笑って見せ、今度は小さく頭を下げた。
 あかねの方も、同じように軽く会釈を返す。
 歩き去っていくふたりの後ろ姿を見送りながら、あかねの口元にはかすかに笑いが浮かんできた。
 くすりと笑みをこぼして、素直な感想をくちびるにのせる。
「なんだかすごく、かわいい子……」
 そう、例えば妹を見ているような気分にさせられる。
 構ってしまいたくなるような、目が離せないような雰囲気は、(もしも妹がいたらこんな感じなのかな)と思えた。
 不思議な親近感の理由はまったくわからなかったけれど、なぜだか不快感は微塵もなかった。
 どちらかと言えば、心地好い……懐かしい?
 しかし、そのときのあかねには、その感情の正体を掴むことは、できなかった。

 ふたりの姿が雑踏に紛れて見えなくなったのを機に、あかねたちもふたたび歩き出した。
 人の流れに混じって家路を辿りながら、あかねは先ほど見た青年の顔を、もう一度思い出す。
 そうして今度は、自分の肩のさらに上、頼久の顔に目を移した。
 あかねの位置からは、まっすぐ前を向いて歩く頼久の横顔を見上げることになる。
 けれど、数え切れないほど見てきた顔の造作は、目を閉じても思い浮かべられる。
 頼久と先ほどの青年、ふたりの顔を並べてみると……
「やっぱり、ものすごく似てる」
 聞かせるでもなく呟いた言葉だったが、頼久の耳には届いたようで、視線があかねの方を向いた。
 振り返ったその目は、少々困惑している様子をうかがわせる。
「やはり、そう思われましたか」
「はい。……頼久さん、自分でも似てるって思ったんですね」
 あかねが確認すると、頼久は視線でうなずいた。
 似ているというレベルを超えて、一目瞭然、瓜二つと言っても良いほどだったのだ。
 自分でも似ていると思わざるを得ないだろう。
(普通、こういう場合って、兄弟とか親戚とかいうことを考えるけど……)
 この世界に、頼久の兄弟や親戚は存在しない。
 我が身一つでこの世界にやってきた頼久に、ここでは血族などいないはずだ。
 血のつながりが考えられない以上は、他人のそら似ということしかありえない。
 あかねの脳裏に、『世の中には同じ顔の人が三人』などという言葉が浮かんだ。
 嘘か真かはさておき、昔から言われていることではある。
(でも、それを信用して片づけられる気分でもないし……)
 結論が出ないまま、あかねがあれこれと考えを巡らせている間、頼久もまた無言だった。
 あかね同様、先ほどの一件について考え込んでいるのだろう。
 しばらくふたりは、そうして黙ったまま歩いていたが、不意に頼久が小さく溜息をつくのが聞こえた。
「頼久さん?」
 あかねがくるりと首を巡らせると、頼久もあかねの方を向いた。
 一旦合わせた視線をふたたび路上に落とし、頼久は口を開いた。
「推測に過ぎませんが……」
 真剣な顔つきのまま、頼久は慎重に言葉を継いでいく。
「あの者は、八葉……だったのではないかと」
「八葉?」
 告げられた思いがけない言葉に、あかねは目を見開いた。
 ―― 懐かしい響きの言葉だ。
 その言葉が身近なものだったのは、もう二年近くも前のことになる。
 京において、龍神の神子を守護するべく宝珠を授かりし者たち。
 それが、八葉だ。
「でも、八葉の中にはあんな人……」
 そこまで口にして、はっと思い当たった。
「別の時代の、っていうことですか?」
 あかねの問いに、頼久は「確証はないのですが」と言いながらうなずいた。
「私にとても近い気を持つ者だと、感じました。……もっとも、私は藤姫様や泰明殿のような占者としての力は持っておりませんから、勘でしかありませんが」
 生真面目に推測の理由を告げた頼久を、あかねはじっと見上げた。
 確証はないと言いながらも、その目には言葉とは裏腹に、どこか自分の言葉を確信しているような気配がある。
(確かに、頼久さんの勘ってけっこう当たるんだよね)
 龍神の神子であった頃には、あかねにもそれなりに第六感とでも呼べるようなものが備わっていた。
 そして八葉の彼らにも、気に対する鋭さ、気を読む力があった。
 けれど、この世界に戻ってきてからは、あかねは自分の中に格別そのような力を感じたことはない。
 役目を終えれば力もまた消える、そういうことなのだろうと思った。
 だから、頼久の八葉としての力も、こちらに来た時点で消えたはずなのだ。
(宝珠だって、いつの間にかなくなっちゃったみたいだし)
 それでも頼久が今なお勘の鋭さを保ちつづけているのは、きっと鍛錬の賜物ということなのだろう。
 武芸で鍛えられるのは、決して力だけではない。
 いつだったか、そう頼久に聞いたことがある。
(精神もまた、鍛えられ磨かれるものだって)
 そうして研ぎ澄まされた精神の力は、時空を超えたぐらいで失われはしない。
 変わらず頼久の内にあって、時折『鋭い勘』というかたちでその片鱗をのぞかせるのだ。
 しかも今まで、頼久が「ただの勘」と断って告げた内容が外れていたことはなかったから、あかねはその『勘』を全面的に信頼している。
「……頼久さんがそう思ったなら、きっとさっきの人は八葉だったんですよ」
 疑う理由はみつからないから、あかねは朗らかに笑ってそう告げた。
 つられたように頼久も少し目元を和らげて、「そうでしょうか」とかすかな笑みを返してくる。
 一つうなずくことで同意を示して、あかねは「それなら……」とふたたび口を開いた。
「一緒にいたあの女の子は、もしかして私と同じ、龍神の神子だったりしたのかな」
 そうだとしたら。
「あのふたりも、私たちと同じようにこっちに来たのかな……?」

 並んで頼忠の家に帰り着くと、花梨は抱えていた箱を慎重に居間のテーブルに降ろした。
「大丈夫だったかなぁ……」
 先ほど少し傾けてしまったケーキの状態が心配で、おそるおそる箱を開けてみる。
 箱の蓋をそっと持ち上げると、中から小振りのケーキが現れた。
 表面は苺とシャンパンをベースにしたというムースで、淡いピンク色。
 上にも大きな苺がデコレーションされ、添えられたプレートと柊の葉がクリスマスの雰囲気を醸し出している。
 先ほどの衝撃か、柊の葉がわずかに傾いていたが、指先でちょこんと押すと元通りの形に戻った。
「良かったぁ」
 ほっとした花梨は、再び注意深く蓋をすると、箱を冷蔵庫へと運んだ。
 もともとあまり物が入っていない冷蔵庫だけあって、ケーキの箱を置くスペースはすぐに確保できた。
 ぱたんと冷蔵庫の扉を閉めて、花梨は居間に引き返す。
 コートとマフラーを取ると、部屋の片隅のハンガーに掛けた。
 振り返ると、エアコンのスイッチを入れた頼忠がカウチに座り込むところだった。
 二人用のカウチの片側に身体を沈め、頼忠は目線だけで花梨を呼ぶ。
 ちょうど一人分だけ空けられたスペースが、花梨の定位置だ。
 腰を下ろすと、頭のすぐ隣に頼忠の肩がくる。
 そうすると、いつだって頼忠は花梨が寄りかかりやすいように態勢を変えてくれるのだ。
 肩先にこつりと頭をあずけて、身体も少し寄せて、そうやって甘えるのが気持ちいい。
 長い指で、ゆっくりと髪を梳いてくれるのも。
 けれど、先ほどまで冷たい外気に手を晒していたせいだろうか。
 髪の中で遊ぶ頼忠の指先は、こころなしか冷えているような気がする。
「なにかあったかいもの淹れようか?」
 頭は肩にあずけたまま、花梨は首をねじって頼忠の顔に視線を向けた。
 だが、ふわりとした微笑を浮かべて花梨を見ていた頼忠は、花梨の言葉に首を横に振る。
「でも、部屋あったまるまでもうちょっとかかりそうだし……」
 花梨自身は、外では手袋をしていたおかげで、さほど手も冷えてはいない。
(だけど、頼忠さんは手袋してなかったから……)
 花梨がいるのとは反対側、無造作に投げ出された頼忠の右手に目をやった。
(冷たそう)
 腕を伸ばして、大きな手を捕らえる。
 自分の方に引き寄せると、花梨はその手を両手で挟み込んだ。
 思ったとおり、頼忠の指は花梨に比べてずいぶんと冷たい。
 少しでも手が温まるようにと指を絡めてきゅっと握ってみる。
 そこで何気なく頼忠の顔を見上げて……花梨は思わず頬を赤らめてうつむいてしまった。
 目にしたのは、思いがけないほど優しい頼忠の表情。
 瞳は柔らかく細められて、口元は甘く綻んで。
 ふたりきりのときにしか絶対に見せないような、とびっきりの『恋人』の顔。
 それを向けられると、いつも意識するより先に顔が火照ってしまう。
 そうしてうつむいてしまった後で気づくのだ。
 自分が照れてしまう理由。
 表情だけで、けれど表情のすべてで、
(「愛しい」って、言ってるから)
 それがわかってしまうと、なおさらドキドキしてしまう。
 鼓動が速くなっているのが自分でもはっきりわかって、それが触れ合う指先から頼忠にも伝わってしまわないかと心配になる。
 これだけのことで妙なほど緊張してドキドキしまっていると、悟られてしまいそうで。
 できるだけさりげなく指をほどこうとしたが、頼忠にはそんな考えはお見通しなのか、逆に一層しっかりと手を握られてしまった。
「花梨」
 笑ってからかいながら、形ばかりに責めている口調。
 そんな風に呼ばれても、なんて答えたらいいのかわからなくて、口を開けない。
 嫌なわけではない。
 それはもう、絶対に。
 頼忠にだって、そのぐらいのことは言わなくてもわかっているはずだ。
 本当の理由は。
(照れちゃうから、なんて……)
 言えるわけがない。
 そんなことを言うことすら、気恥ずかしく思えてしまうぐらいなのだから。
 それに、どうして鼓動が速くなってしまうのかは、自分にもわからない。
 愛しいと思われていることがはっきりわかってしまうから?
 コート越しに腕を組んだり肩を抱かれたりするのとは違って、直接指先が触れているから?
 考えてみても、理由がわからないのだから、うまく説明できるわけもない。
 結局花梨がなにも言えずにいると、頼忠もそれ以上はなにも言わずに沈黙してしまった。
 静かに流れる時間の中で、頼忠はその沈黙を楽しんでいるような気配すら漂わせている。
 一方の花梨は、ますます速くなる鼓動をおさえられずにじっと息を殺していた。
 こんな風に静かな空間では、余計に甘い空気ばかりが際だつようで。
 黙ったまま指を絡めているのが本当に自然なことのように思わされてしまうから、困る。
(私、まだ、この空気を楽しめるほど慣れてないもの)
 だから、子供っぽいことと思いながらも、つい口を開いてしまうのだ。
「あの……」
 とりあえず沈黙を破りたくて、花梨はなにも考えないまま言葉を押し出した。
 そうして口を開いてしまってから、慌てて用事を考え出す。
 なにを言おうかとめまぐるしく頭を回転させて、花梨はとっさに浮かんだことをそのまま口に出した。
「帰りに会った人、本当に頼忠さんにそっくりだったよね」
 焦っていたせいか、ずいぶんと早口で、しかも勢い込んだ口調になってしまった。
(ちょっとわざとらしかったかな……)
 再び沈黙が降りてきてしまうのかと花梨は心の中でこっそり溜息をついたが、一呼吸置いて頼忠から返事が返ってきた。
「……ああ。自分でもそう思った」
 答える声は、意外なほど真面目で。
 少しだけ驚いて、花梨はおそるおそる顔を上げる。
 ふたりの視線が交わっても、先ほどとは違い、今度は頼忠も笑みを見せなかった。
 真剣な目のままで、続けて頼忠は口を開く。
「今思えば、あのとき立ち止まったのは、すれ違った瞬間に記憶が蘇ったせいだったのだろうな」
「記憶?」
「八葉だった頃のことだ」
 もっとも……、と話し続ける声に、苦笑が混じった。
「ずいぶんと昔のことのようで、記憶もかなり曖昧になってしまっているが。……まだ三月しか経っていないのにな」
「三ヶ月前、か……」
 異世界で過ごした、三月の記憶。
 言われてみれば、あのとき頭を過ぎったものはそれだったのかもしれない。
「八葉として宝珠を身に持っていた頃は、龍神の気というか……特殊な気を近くに感じていた。そのような気が戻ってきたように思えたな」
「龍神様の気、を?」
「ああ。まったく同じではないが」
 短く答えて、ふと頼忠は考え込む表情になった。
 わずかに視線を落とし、意識を凝らして……次に言うべき言葉を、考えている。
 流れる沈黙は、先ほどと違って張りつめたものだ。
 そして、それを破った声も思慮深く注意深いもの。
「おそらく……」
 確かめるように呟きながら、頼忠は視線を再び花梨の顔に戻した。
 真っ直ぐに目を合わせて、結論を告げる。
「いつかの時代に、八葉であった者なのだろうな」
「そうなの?」
 疑問ではなく、確認の意を込めて問い返す。
 無言でうなずいた頼忠の視線は強く、自らの出した結論に確証を持っているようだった。
「そっか……そういうの、わかるんだね」
 私には全然わからないのに。
 そう言うと、「同じ八葉なればこそだろう」と頼忠は答えた。
 その言葉にひっかかりを覚えて、直後、花梨は「あ」と口を開いた。
「それじゃあ、一緒にいた人は、私と同じ、龍神の神子だったのかな?」
 自分たち以外の八葉がいたなら、当然自分以外の神子も、存在したわけだ。
 そして、八葉が単独で時空を超えていくことはないだろうから、ここにいると言うことは多分、元の世界に戻る神子と共に来たのだろう。
 一緒に来た、ということは……。
(離れたくないって思ったからなんだろうな)
 自分が、ずっと頼忠の側にいたいと願ったように。
 頼忠が、自分と共にあるために時空を超えることを厭わなかったように。
(好きっていう気持ちを大事に大事に抱えて、ここに来たんだよね)
 そう思うと、先ほどのふたりに対して、親しみとでもいうようなものが湧いてくる。
「まさか、私と同じ世界から、しかも同じ時代から京に行った神子がいるなんて、考えたことなかったな」
 自分以外に神子がいるということすら、頭ではわかっていても未だに実感がないのだ。
 京にいた頃噂に聞いていた『百年前の神子様』のことすら、物語の中の存在のように思えてしまっていた。
「……ね、さっきのふたりが百年前の神子と八葉だったりしたら、びっくりだよね」
「伝承になっていた龍神の神子か?」
「そう」
 花梨がうなずくと、頼忠は少しだけ眉をしかめた。
「ありえないことではないが……あまり想像がつかないな」
「そうかもしれないけど……でも、私たちも百年後には、ああやって『伝説の神子と八葉』なんて言われちゃうのかもしれないよ?」
 首を傾げる花梨に、「奇妙な気分だな」と言って頼忠は苦笑いした。

「幸せそうでしたね、さっきのふたり」
 静かな住宅街を歩きながら、あかねはそう、頼久に話しかけた。
 街中にはまだ多くの人が溢れているが、頼久の家があるこの一角はすでに人影もまばらだ。
 すっかり日も暮れて星が瞬き始めたこの刻限、早い家ではもうクリスマス・パーティーが始まっているかもしれない ――
 庭木をライトアップしている家がぽつぽつと見当たることもあって、あたたかく幸せな想いが自然と沸き上がってくる。
 そんな中で、あかねの心の中にはふと、先ほど見かけたふたりのことが思い出されたのだ。
 ―― 心の底から幸せそうな少女の笑顔と、それを見守る青年の優しい視線と。
 箱を危うく取り落としかけて、驚いたあとに楽しげに笑いあっていた表情が印象に残っている。
 心が通い合っている、そんな空気が、まるで目に見えるようだった。
 ふたりの立っていたあの場所が、ほのかにあたたかく染め上げられていたようにすら思えた。
(……あの人の、目)
 ひどく大切なものを見るような青年のまなざしに、思わず目を瞠ってしまった。
 溢れ出しそうなほど、こぼれ落ちそうなほど、たっぷりの「愛しい」という想いをにじませた視線は……とてもとても、よく似ていたから。
(頼久さんの、目と)
 そっと振り仰ぐ先で緩められた瞳は、ちょうど先ほどの青年と同じ色合い。
 注がれる視線にのせられた想いも、同種のもの。
(私たちと、同じ)
 浮かんだ想いを口に出したわけではなかったが、心の中だけで呟く言葉は、なぜか頼久にも伝わるらしい。
 微笑みを形作る唇が、「私たちのときと同じように ―― 」と動いた。
「あのふたりがいた時代にも、何らかの危機があったのでしょう。ですが、あの世界でなにかを守るために戦い、その後になお傍らにあることを選んだのなら……きっと、幸せなのだと思います」
 一息に口にすると、俄に照れをのぞかせて、頼久は「私と同じように」と言い足した。
 言葉に含まれた意味と頼久の表情とに釣られて、あかねも思わずはにかむ。
「でも、頼久さん」
 幸せなのは ――
「『私』と同じように、じゃないですよ」
 一人だけじゃなくて。
「『私たち』と同じ、って言ってくれないと……正確じゃ、ないです」
 かけがえのないものを得たのは、その幸せを今も大切に抱き締めているのは、自分も同じ。
「私が幸せで、頼久さんも幸せ。ふたりとも幸せでいるから、嬉しい気持ちが何倍にもなるの。……そうじゃないですか?」
 足を止めて、真正面から頼久を見上げながら告げる。
 わずかに目を見開いて聞いていた頼久は、あかねの最後の問いに、なんとも言えない笑顔を浮かべた。
 愛しくて嬉しくて、けれどその気持ちが大きすぎて困ってしまっているというような、複雑な表情。
「貴女という方は……」
 呟く声が聞こえたのと同時に、あかねはすっぽりと頼久の腕の中に閉じこめられていた。

「それにしても、よく考えたらすごい偶然……なんだよね」
 しみじみと呟いて、花梨はほうっと息を吐き出した。
 不思議そうな表情で頼忠が先を促しているのを悟って、花梨は再び口を開く。
「もし、さっきのふたりが、本当に私たちと同じように龍神の神子と八葉だったとしたら……」
 この世界に生まれた『彼女』が、時空を超えて『彼』に出逢ったこと。
 同じようにこの世界に暮らしていた自分が、京に喚ばれて頼忠と出逢ったこと。
 そして、そんな『彼ら』と『自分たち』が、戦いを終えて戻ったこの世界で出会ったこと。
「一つ一つのことだって、十分すぎるくらいすごい偶然なのにね」
 小さくうなずきながら話を聞いていた頼忠は、花梨の言葉に「……ああ、そうだな」と相槌を打った。
「本来なら、こうして花梨と逢うこともなかった」
「でも、一緒にいるんだよ。……こうやって」
 繋いでいた手を、今度は花梨の方からぎゅっと握り返す。
 嘘みたいな出逢いでも、こうして側にいるのは嘘じゃない。
 今、目の前にある現実なのだと、ふたりで確かめたくて。
 手のひらにひろがるぬくもりが、先ほどは気恥ずかしく思えたけれど、今はとても大切な、いとおしいものに感じられた。
 体温を、鼓動を、伝え合える人がいるということが、泣きたいほどに嬉しい。
(京に行ったばかりの頃は、なにもわからなくて不安なことばっかりだったけど)
 その運命は、こんなにも大きな幸せをもたらしてくれた。
 神子でよかった。
 京に行ってよかった。
(あの世界が、あの時代に私を必要としてくれたこと、迎えてくれたこと……本当に、嬉しく思うよ)
 閉じた瞼の裏に、異世界で出会った物事、人々の姿が次々と浮かんでくる。
 そのすべてがあたたかいのは、『今』が幸せだから。
 胸の中で輝く思い出たちの先に、素敵な今がつながっていてくれるから。
「……ねえ、頼忠さん」
「ん?」
「この世界って、素敵なことが起こるように、みんなが幸せでいられるように、……そういうふうに守られてるんだね。きっと」
 言葉を紡ぎながら思い出すのは、神子であったときにほんのひととき相見えた龍神との会話だ。
 一つ目の願いは、あの世界にあるべき力を取り戻してもらうことだった。
 二つ目の「力の及ぶ限り人の幸せを見守って欲しい」という願いが、きっと今、この世界を守ってくれている。
 そして三つ目、最後に願ったのは……
(「大好きな人と、一緒にいたい」)
 その想いが、今、現実になってここにある。
 そして、過去すら優しい色で包んでくれている。
 ── できれば、この先の未来も、すべてあたたかいものであってほしい。
 楽しいことばかりではなくて、きっと辛いことも苦しいこともあると思うけれど、
(あなたがいてくれたら、全部幸せに変えられる。そうなるようにがんばれる)
 自分にとって、なによりの力になる。
(だから)
「……これからも、ずっと一緒にいてね?」
 小さな呟きは少し唐突だったせいか、すぐには頼忠からの反応はなかった。
 程なく頭上でくすりと笑う気配がして、頼忠が動いた。
 首を傾けるようにして花梨の耳に口を寄せる。
『嫌だと言われても離す気はない』
 悪戯っぽく囁かれた言葉の意味を、数秒かけて飲み込んで……途端に花梨は顔を真っ赤にした。
 笑いながら深く抱き寄せられ、火照った顔をうつむけて隠す。
 ひとしきり涼しげな笑い声を響かせていた頼忠は、ふと笑いを収めると花梨と繋いでいた指を解いた。
 その手で花梨の耳にかかる髪をかきあげ、吐息の触れる位置までもう一度くちびるを寄せる。
「それでも構わないか?」
 問い掛ける声は、数瞬前までの笑いの名残を残しながらも、とても真剣だ。
 その声音に、先ほどの言葉が本気なのだと悟らされる。
(本当に、離さないって……)
 情熱的な言葉はまだ耳に馴染まないから、聞くたびに身をすくませてしまうけど。
(それで、いいよ)
 幾度自分の胸に問い返しても、答えはいつもひとつだ。
『絶対に、離れたくない』
 強い想いは、少なくとも今この瞬間、ありったけの真実だ。
 ふたり一緒にいるのが一番幸せな、一番大切なこと。
(だから、そう言ってくれること、嬉しいよ)
「うん……ありがとう」
 うなずきながら小声で答え、花梨はゆっくりと頼忠に身体をあずける。
 胸にもたれかかって視線を上げると、窓の外にちらちらと舞い落ちるものが見えた。
「……今年の初雪だね」
 例年より遅めの初雪だったが、クリスマスに合わせて降ってくれたのだと思うと嬉しい気持ちになる。
 まるで、今まで待っていてくれたかのように思えて。
(こっちに来て、ふたりで見る初めての雪だもの)
 今日降ってくれたから、ふたりで見ることができたのだ。
 この先いくらでも雪は降るけれど、やっぱり『初めて』のときは一緒がいい。
(やっぱり世界は、いくつもの素敵な偶然を用意してくれてるんだね)
 ── 明日の朝目覚めたら、きっと外は一面の銀世界だろう。
「頼忠さん、明日もまた一緒に出かけようね」
「ああ」
「朝一番に、迎えに来るからね」
 張り切った花梨の言葉に、頼忠は苦笑して「わかった」と答えた。
「京の雪景色も綺麗だったけど、こっちも綺麗な場所、たくさんあるから。一緒に見に行こう?」
 もうしばらくすれば梅が咲き、春先になれば桜が咲く。
 花ばかりでなく、例えばもうすぐやってくるお正月や、長い夏休み。
 季節が一巡りして来年のクリスマスを迎えるころ、ふたりの思い出はどれくらい増えているだろう?
(たくさん、一緒にいようね)
 ときどきはケンカをしたり、相手のことがわからなくなったりするかもしれないけれど。
(ずっと、一緒にいようね)
 素敵なことも、きっとそれ以上にたくさんみつかるから。
「……さ、そろそろごはんにしよう?」
 勢いよく立ち上がり、花梨は笑顔で頼忠の手を引いた。
 まずは最初のクリスマスをとびきり素敵なものにしようと、心に誓いながら。

Fin.