久しぶりに、心穏やかな夜だった。源氏の陣を出た望美は、雲のない澄んだ夜空を見上げてそっと溜息を零した。髪を煽る夜風が心地好い。
 憂いなく月を見るのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。幼い頃から月を眺めるのがなぜか好きで、いつもその光を好ましく思っていたはずなのに、ここ数か月というものの、その感覚を忘れていた。
 眩い月の光にも、思うのは辛いことばかり。突きつけられた現実を前に、素直に泣くことも許されなくて、涙を零さないためだけに夜空を見上げる ―― 幾度もそんな夜を過ごしたけれど、それも今は過去の出来事となった。
 福原から屋島、壇ノ浦、そしてここ厳島へと続いてきた戦いは、今日、ようやく終わりを告げた。戦いの傷跡は大きく、日がすっかり暮れた今になってもまだ陣の中では人々が忙しなく立ち動いているものの、そこには昨日までのような殺気立った気配はない。辺りに広がるのは、明るく活気付いた雰囲気だ。甚大な被害が出ているとは言え、やはり戦が終わることを喜ばない者などいないということだろう。
 日中は怨霊の陰気に覆われていた浜も、生じた応龍の神気によって清められ、海から吹き寄せる風は涼しく爽やかだ。絶え間なく怨霊の気配と戦いの緊張感とに晒されていた将兵たちにとっては、夜風の心地好さもひとしおだろう。風に乗って陣の中から響いてくる声の中には、紛れもなく解放的な響きがある。
 今夜の月は、きっと誰の目にも眩く、優しく映っているのだろう。再び夜空に視線を投げて微笑んだ望美は、その月明かりに導かれるかのように、陣を離れてひとり歩き出した。

 気の向くままにそぞろ歩きながら、望美が歩を運んだのは、浜辺だった。気づけば海のほうへと向かっていたのは、やはり波の音に誘われたのだろうか。物心ついた頃から耳に馴染んでいた音に、そうとは知らず引き寄せられたのかもしれない。
 御笠浜にはまだ、日中の惨状の名残があるのだろうけれど、望美が下りてきた場所は少し離れているせいか、景色の中に眉を顰めさせるようなものはひとつとてなく、海も静かに穏やかなままだった。凪いだ海の上に光る月は皓々と明るく、灯りなどなくても視界は明瞭だ。その中に浮かび上がった人影を見出し、望美は目元を緩ませた。
 見間違いようもない。長身の人影は、良く知った幼馴染みの『彼』だ。戦装束を解いた姿は、この世界に来てからいつも目にしていたのとは見違えるような、身軽なものへと変わっている。それでも、立ち姿に漂う雰囲気が、彼なのだとすぐに教えてくれた。
 将臣のほうでも、疾うに望美が来たことに気づいていたのだろう。近づいていくと、望美のほうを見ていた将臣も、屈託ない笑顔を浮かべた。
「どうしたの? こんなところで」
 歩み寄って声を掛けながら、その一方、心のどこかでこれは予想どおりだとも思った。約束などなくても、海辺に来れば将臣に逢える ―― そんな予感があったのも事実だ。
「なんとなく、お前が来そうな気がしてな」
 そう答えた将臣にも、同じような勘が働いていたらしい。思ったとおりだと言って、将臣は晴れやかに笑った。つられて望美も笑みを零す。
 近くに海があれば、なんとなく足が向いてしまう。それは元の世界にいた頃から変わらない、ふたりにとっての習性のようなものだ。学校帰り、ほんの数分でも時間があれば、どちらが誘うでもなく海を見に行った。そんなことが懐かしく思い出される。
 その上こちらの世界に来てからも、将臣と海辺で出逢ったのは、今日が初めてではない。
「……前にも、こんなことあったもんね」
 未だ戦いの中にあった、屋島での記憶が蘇る。
 あのときも、当て所なくひとり彷徨い歩いて、辿り着いた浜辺で将臣と逢った。互いに相手がそこにいることなどもちろん知らず、偶然に起こった再会だったけれど、あれはきっと、海辺だったからこそ起きた出来事だったのだろう。
 あのときは、まだふたりは敵同士だった。敵だと思わなければいけない相手だった。一番逢ってはいけない人で、けれど一番逢いたい人で……心には、矛盾する思いを抱えていた。自分の中にある恋情をはっきりと認めたのは、思えばあの夜が初めてだったようのではないだろうか。
 それまでは、すべての理由を「幼馴染み」という関係に求めていた。無事でいて欲しいと願ったことも、再会できて嬉しかったことも、敵だと知って身を切られるほど苦しかったことも、すべてを。
 傍にいて欲しいと思うのは、それが十数年、当たり前の日常だったから。隣で見慣れた笑顔を浮かべていてくれれば、わずかでも平和な日々を取り戻したように錯覚できるから。そしてそんな相手に剣を向けたくないのは、当たり前のこと。そうやって、すべて説明がつくと思っていたのだ。
 けれど、源平の争いが激しさを増す中、どうしても変えられない運命を、避けられない戦いを知らねばならなかった。進むことも戻ることも苦しくて、自分の願いと為すべきことと、どちらもわかっているのにその両方を同時に選び取ることはできないのだと悟らされた。そうして心が追い詰められていく中、立場だとか使命だとか、そんなものをすべて取り払って自分の心を見つめたときに、本当に欲しているものがわかった。
 ただ、ふたりでいることが叶えばいい。彼がいてくれるのなら、それだけでいい。
 なにをもっても代えられない、代えられるわけなどない。たとえどんなものと引き換えにしても彼を喪えないのだと悟ったときに、それまで気づかなかった存在の大きさを認めざるを得なかった。それを戀と呼ぶのだと、思い知らされた。
 そのときは、こんなときにこんな形で知るくらいなら、いっそ気づかないままのほうが良かったとも思った。気づいてしまえば一層苦しみが増すばかりなのにと、自分の心すら恨めしく思った。けれど、戦いが終わりを告げ、こうして彼と笑い合える今、胸に抱く想いはあたたかい。
 傍にいる。ただそれだけのことをどんなに嬉しく思っているか。幸せに思っているか。それは簡単に口にできるようなものではなくて、どれほど言葉を選んでもきっと言い表せはしないだろう。
 残った傷跡が、ないわけではない。ふたりの間に、周囲に、この世界に、戦いが刻んだものは、確実に存在する。喪われたまま二度とは戻らないものを、数え上げればきりがない。
それでも、最後に掌の中に残ったものは、それだけで十分だと思えるほどに大きい。一番大切なものは、ちゃんと取り戻した。本当に、とてもとても大切な、なにより願ったもの、祈ったものを。
 ―― 心から、幸せだと思う。本当に現実なのかと疑いたくなるほどに。幸せすぎて恐い、という言葉を耳にしたのは、いつのことだったろう。覚えてはいないけれど、そのときの自分には理解できなかったことは確かだ。けれど今は、もしかしたらこんな気持ちをそう言い表すのかもしれないと胸に思う。
「本当に、もう全部、終わったんだよね」
 口にした言葉は、確認と言うより願いに近い。どうか、今目にしているものが、都合良く作り出された幻などではないように。朝が来れば消えてしまう泡沫などではないように、と。
 望美の言葉に「ああ」と応じた将臣は、それからふと表情を変えた。眉尻を下げたその顔は、苦笑しているようにも、また困惑しているようにも見える。
「……夢なんかじゃねえよな」
 声音に覗くのは、かすかな恐れ。頬に触れてきた指先も、どことなく躊躇っているように感じられた。まるで輪郭をなぞるように将臣の手が滑っていくのを、身じろぎもせず受け止める。されるがままに任せて、弱気だねと笑って囁いた。
 不安を表に出す姿を、彼らしくないと思っただろう。これまでなら。けれど、今目の前にいる彼は、制服を着ていたあの頃とは違うのだ。平和で穏やかな生活から遠く引き離され、戦場に身を置くことを日常としてきた、そんな人なのだ。
 彼も、自分も、もう昔のように無邪気にはいられない。思いも掛けない運命に、当たり前の毎日など容易く壊されてしまうことを知った。信じていたものが覆されてしまうこと、手の中にあるものが突然に喪われてしまうことを、知ってしまった。
 戦いの終わりをこの目で見ていてすら、信じ切れない。夢ではないかと疑ってしまうのは、夢路に逢瀬を重ねた記憶があるから。その逢瀬が、いつも奇妙なほどに現実感を伴っていたから。交わした言葉はふたりそれぞれの記憶にはっきりと残り、約束をすればそれは叶えられ、手渡された時計は今も望美の手元にある。
 どこまでが現でどこからが幻か、境界線のあやふやだった夢の世界。それを知っているから、こうして目の前にいて触れていてすら不安になる。それでも。
「夢なんかじゃないよ」
 確かめるように寄り添って、その腕に触れれば、温もりが伝わる。理屈ではないところから、心に安堵感が広がる。体温が通い合うその場所から、囁きかけてくるものがある。幻ではないと、五感が告げるのだ。
 信じたい。その感覚を。
―― 夢じゃないよ、きっと」
 再び告げる声は、囁くように、けれどまっすぐに。微笑の中に強い光を宿して、彼を見上げる。
 望美の視線を受け止めて、将臣はふと息をついた。浮かんだのは、見慣れた苦笑だ。
 穏やかに目元を緩ませた将臣が、確かめるように顔を覗き込んできた。笑い返せば、自然と口元が綻ぶ。後ろ髪に触れてきた彼が首を傾けるのを見て、望美は微笑を唇に残したまま、静かに目を閉じた。

 火照った頬を、夜の海風が撫でる。ふたりは砂浜に座り込んだまま、なにをするでもなく海の音を聞いていた。生まれてから今まで、数え切れないほど繰り返した行為の中、違うのはふたりの距離だ。寄せ合った肩先が、仄かな温もりをもってあたたかい。
「ねえ、戻らなくていいの?」
 戦闘自体は終結したと言っても、なにもかもが落ち着いたわけではない。考えてみれば、平家方を統率する立場にある将臣は、忙しい身分なのではないだろうか。
 そう思って口にした問いは、逆に「お前こそ」と返された。いろいろあるんじゃねぇのか、と言った彼に、望美は苦笑してみせた。
「事後処理は、私の出る幕じゃないから」
 怨霊もすべて消え失せた今、陣に戻ったところで望美ができることはこれと言ってない。「お役御免、かな」と冗談めかして笑うと、それならいいけどさ、と将臣も笑った。
「こっちもまあ、なんとかなってるだろ」
「いい加減だなあ」
「一応、外に出てくるってのは言ってあるから、大丈夫だろうさ」
 軽い口調で請合った将臣が、「それに」といたずらめいた口調になった。
「今日くらい、構わねぇだろ。これまでちゃんとやってきたんだからさ」
 な、と同意を求めてくる、その言い草がおかしくて、望美は小さく吹き出した。堂々と悪びれない将臣の様子を見れば、諌める気など到底起きるはずもない。逆にもっともだと頷かされてしまうのは、もう慣れたことだ。
「そっか、そうだよね」
 くすくすと笑いながら答えれば、「だろ?」と将臣も相好を崩す。
「ずいぶんとがんばったろ、俺たち」
「うん、がんばった」
 ふたり揃って明るい声音で言えば、まるで無邪気な子供のような会話だと思う。けれど、ここまでくるのが簡単なことではなかったのは、ふたりが一番良く知っている。
 背負ったものの重さと、手を伸ばしたいのに伸ばせない場所と。互いを想いながらも、一方にどうしても切り捨てられないものがあった。決して他人には見せられない葛藤を、離れた場所で、まるで鏡に映したかのように、ふたりとも覚えてきた。
 語れば大きくて重くて、どんなに言葉を尽くしても、きっと本当の心になど届かない。だからこそ、「がんばった」なんて簡単な言葉にしかできない。
 それでも、そんな一言だけで思いが通じるのは、自分たちふたりだからなのだろう。
 誰より互いをわかりあえる。言葉にはならなくても、それより先に、視線で呼吸で、伝わるものがある。そのことは、昔も今も変わらない。
 おそらく、ふたりは似ているのだ。本当は、とても。それが生まれついてのものなのか、それともずっと近くにいたせいなのかはわからないけれど。理屈ではなく理解できる、そんな感覚が確かにある。
 映し合う心は鏡。だから、ふと言葉の途切れる瞬間にも、かすかな溜息ひとつ、視線ひとつで、胸に抱く思いがわかる。覗き込む瞳の中に揺れる感情を、読み取ることができる。
 ―― これも、月が見せている夢のようだと。笑い合う中にふと深くなる眼差しが、迷っている。
 離れ離れでいた時間を、すぐに埋め合わせることなどできないのはわかっている。意識しなくても傍にあった日常だからこそ、喪失感もまた深い。突然放り出された闇に、探し求めていた光を再び見いだしたとして、一瞬で夜が昼になるわけではないのだ。望美ですらそう思うのだから、更に長い時間をひとりで過ごしてきた彼にはなおのこと。
 今、ようやく、再び隣を歩けるようになって、喪っていた時間を手探りで埋めていこうとするふたりだけれど、心の在処が、向かう先が、もうあの頃とは違う。喪いたくないと願う強さが、あの頃とは比べものにならない。
 夢なんかじゃない。幻なんかじゃない。
 幾度も心許なさを覚えて、そのたびに確かめて安堵したいと思うのは、望美とて同じだ。視線で足りなければ言葉を、言葉でも足りないのなら温もりを。戦いの最中で彼がしてくれたように、手を取って堅く繋ぎ合えば、強い力を内に潜ませた手が心を宥めてくれる。
 どうかしたのかと見下ろしてくる彼に、なんでもないよとただ頭を振った。「変なやつ」と笑われたけれど、そう言った彼も手を解こうとはしないから、繋いだ指先はそのままに、ふたりでまた黙り込んだ。
 手を繋ぐ。ただそれだけのことを、何年ぶりだろうかと思う。ふたりの関係は幼い頃からずっと変わっていないつもりでいたけれど、いつの間にかしなくなっていたことだってあったのだと、今更に思う。
 意識なんてしていなかった、と言ったなら、それはやはり嘘になるだろう。心の奥底で変化は起き始めていたのに、自分が気づかなかった、気づけなかった。いつも、あんなにも近くにいたのに、離れてみるまでわからなかった。
 自分の気持ちから目を逸らし続けていたあの頃、いったいなにをそんなに恐がっていたのだろう。今ならそう思う。
 でも、もういい。回り道はしたけれど、障害はあったけれど、喪わずに済んだのだから。自分の想いも一緒にいたい理由もはっきりとわかっていて、離れようにも離れられない存在なのだと心の底から感じているから、今度はもう、間違えない。迷わない。
 絡めた指を、力を込めて引き寄せた。どうしたんだよと、いつものように声が返ってくることを予想していたのに、将臣はなにも言おうとしなかった。代わりに、繋いだ指先が応えるように力を増す。
 伝わったのだろうか。思っていたことが、なにも言わなくても、指先からすべて。以心伝心を可能にする縁の深さを思えば、知らず微笑みが浮かぶ。
 将臣くん、と呼び掛ければ、「ん?」とただ素っ気ない応えが返ってきた。ともすれば乱暴にも聞こえる言葉でも、中に感じ取れる響きは柔らかい。今まで聴いたことのない声だとふと思い、また口元が綻んだ。
「……なんでもない」
 囁くように答えた自分の声も、きっと彼の耳には柔らかく響いただろう。ただ、心の中があたたかくて、くすぐったいような嬉しさを教えたくて。口にする言葉なんて、なんだって構わなかった。伝えたいのは、言葉の奥にある想いだけ。そうすると、自然と声音は優しくなる。甘くなる。夜風に溶けながら、まるで花のように余韻を残す。
 頭を預けている将臣の肩がかすかに揺れて、空を見上げた気配が伝わった。「そうか」と答えた声は、彼にしてはどこか無防備な響きだ。彼の真似をして上を見れば、視界の端に映る彼の顔は困っているようで、視線を合わせ辛そうにしているのがわかった。曖昧な表情の意味を思えば、意外だとつい目を瞠ってしまう。
「……望月、か」
 空に視線を据えたまま、将臣がどこか感慨深げに呟いた。闇に浮かぶ月は正円。今宵は、満月だ。白い光が眩しい。
「こっちってさ、よく月を見ながら酒飲んだりするだろ。おかげですっかり月見のくせがついちまってさ」
 独り言のように紡がれる将臣の言葉が、耳に心地好い。望美は黙って、月の姿だけを目に映しながら、将臣の声を聴いていた。「ま、月見っつってもなにするわけでもなかったんだけどな」と笑う声に、ただ頷いて先を促す。
 一瞬落ちた沈黙は、彼が躊躇した間だったのか。次に口を開いたとき、将臣の声に笑みの名残はなく、代わりに真摯な色が浮かんでいた。
「どうしてだか、満月の夜になるとお前のことを思い出してた。それに、夢でお前に逢ったのも、必ず満月の夜だったろ」
 なぜなんだろうなと呟く声に、かすかに相づちを打って、月に目を凝らす。
 彼の夢を見た夜、決まっていつでも夜空にはこんな満月が昇っていた。降り注ぐ光は優しいのに、辺りが妙に明るく思える、そんな夜だった。
 不思議な力が働く夜。たとえ夢で将臣と逢わなかったときでも、欠けるところない月を見上げると、なにかが心に働きかけてくるようだった。
 今夜の月も、同じだ。闇に浮かぶ月が、その白い姿で、差し伸べる光で、なにかを訴える。
 望美、と呼ぶ声を耳にして、月から目を逸らした。首を巡らせて将臣を見れば、いつの間にかその顔は、空ではなく望美のほうを向いていた。
 背後から射す月光に、彼の輪郭が照らし出される。影になった表情の中、魅入られるように瞳を覗き込んだ。
 ―― 満月は、心を揺らすから。目に見えぬ引力に、誘い寄せられる。
 くちづけたのは、どちらが先だったか。引き合わせる力が働いたかのように、気づけば唇を重ねていた。月の光を彼の身体に遮られて、閉じた瞼の裏側に闇が広がる。
 二度、三度と軽く触れ合って、けれどそれだけでは満ち足りないのだとすぐに気づく。抱き合う腕の強さが、重ねる唇の熱さが、止めどなく衝動を生む。零す吐息の熱さを頬に感じれば、瞳の中にも抑えきれない想いが滲む。
 離れたくないと願うのは、心だけでなく身体も同じ。理性で考えるより先に、触れて近づきたいと欲して疼く。もう二度と離れ離れになどならないと、誓う想いの強さが、そのまま四肢に宿る。
 求めていた幸せが、今、形になって手の届く場所にあるから。夢や幻ではなく、消えない確かさで手の中にあるから。離れることなどできない。喪うことなどできない。ふたりでひとつと思う心のまま、分かたれぬよう、触れてそのまま溶け合えたならと願う。

 横たわれば、背中の下で砂浜がどこかあたたかかった。衝動と背中合わせに穏やかな気持ちが存在する感覚を、不思議だと感じながら望美は微笑んだ。
 彼の肩越しに、見上げる夜空には一層白く光る月。綺麗、と呟くと、眉を寄せるように笑った将臣が、掠れた声で囁いてくちづけてきた。

 海が近い。砂浜に寝転んでいると、打ち寄せては返す波の音に、まるで身体ごと包み込まれるような錯覚を覚える。
 隣に寝そべった将臣とふたり、熱の残る身体を夜風に任せていた。彼の腕に頭を預けて、しばらくは互いに、なにも言わなかった。
 枕代わりの腕は、ちょうど頭に馴染んで落ち着きが良い。まるで、初めから自分のために誂えられていたかのようだとふと思い、そんな考えについ苦笑が浮かぶ。
 緩んだ唇から零れた呼吸を、溜息と取ったのか。将臣の動く気配を感じて横を見れば、彼の顔がこちらを向いていた。細められた目元の表情が優しい。
「寒くないか?」
 問いかける言葉は、ごく小さな囁きだった。ともすれば波にかき消されそうなほど静かな声が、耳を掠める。
 くすぐったさに思わず肩を揺らすと、両腕で抱き寄せられた。抗わず、彼に包まれるまま、身体を寄せる。
 緩やかに脈打つ鼓動を近くに感じ、望美はそっと耳を澄ませた。波音と入り混じりながら、規則正しいその音が、心地好く身体に響いてくる。
 寒くないよと答えを返して、彼の顔に触れた。そうしたいと感じた気持ちは、これまでに覚えのないものだ。十数年もの間、一緒にいたのに、今心に広がる想いは初めて知るものだった。
 抱き締める腕に、守られていると感じる。すべてを委ね、甘えたいとも思う。それと同時に、この人を守りたいと、強く願っている。
 愛しいという言葉に見合う気持ちを、これまでは知らなかったけれど、今なら素直に、その言葉が胸に収まるような気がする。それは労りにも祈りにも似た想いだった。
 抱き締めあうひとときに、わずかでもなにか、癒せたらいい。言葉にならないものを、分かち合えたらいい。余計な枷など外してしまいたいと欲する気持ちが、そのまま行為に映し出される。
 彼の頬から指を滑らせ、すっかり伸びてしまった髪に絡ませた。まるで撫でるように梳けば、将臣が「どうしたんだよ」と苦笑する。けれど、視線を合わせて微笑めば、その苦笑はどこか心地好さげなものへと変わった。
 目を細める彼を見ながら、不思議だと感じていた。幼い頃から、どうしたって彼に対して年上ぶることはできなかったのに。甘えさせているという実感が、甘く快い。
 どこか観念したように目を閉じた彼の髪から首筋、肩へと指を滑らせた。指先で辿る肌には、無数の傷跡が残されている。彼が過酷なこの世界を生き抜いてきたことを、無言のまま物語る。
 心に負ったものを、わかるなどとは言わない。どんな喜びと苦しみとがあったのか。なにを得て、なにを手放したのか。出会った人々、踏みしめた土地、そういった記憶のすべては、彼の中だけにあるものだ。時の流れと共に彼の横を通り過ぎて行ったものはきっと無数にあって、喪われたものもまた、数え切れぬほどなのだろうと、思いを巡らせることだけが、今はできることだ。
 喪われた過去を取り戻して埋め合わせることは、いくら望んだとしても叶わない。けれど、新たに生み出すことなら、これからいくらでもできる。望むものを、その手で築き上げればいい。手を取り合えばそれが力になると知っているから、彼がこの先なにを選ぶのだとしても、その目指す先へ、掌を重ねていこうと思う。
 離れ離れに惑う日々は、もういらない。肌を重ねれば伝わりあう、この心地好い温もりを、いつも抱き締めていたい。互いの腕で温かな眠りに誘う、そんな夜を重ねたい。 ―― そう、今夜のように。

 不意に訪れる眠気は、満ち足りた心がもたらしたものだろうか。小さく欠伸を噛み殺すと、「しばらく寝てろ」と髪を撫でられた。優しい仕草を気持ち良いものと感じながら、素直に目を閉じる。
 もう、夢での逢瀬を願ったり恐れたりすることはない。満月の夜でなくても、夢を見なくても、すぐ傍にいる。逢うことができる。そして、次に目を開けたときもきっと、変わらぬ笑顔がそこにある。
 だから、今宵見るとすれば、それは幸せの夢。繋いだ指先に吐息を零して、温かな夢に揺られる。消えることない月の姿を、瞼の裏にそっと閉じ込めて。

Fin.