この世界は、どこまで続いているのだろう。視線を中空に彷徨わせ、望美は独り、自問した。
 日々多くの時間を過ごしてきた教室。残照に染まる景色はとても懐かしく、けれど拭えぬ違和感もまた存在する。見慣れたはずの風景なのに、拒絶されているような、疎外されているような感覚がある。自分で作り出したはずの景色に、溶け込むことを拒まれている。まるで、ここは自分のいる場所ではないのだとでも言うように。
 この教室はこんなに狭かっただろうか、と思ってしまうのは、すでにこの世界に身を沈めてからどれほどの時間が経ったのかがわからなくなっているからだろうか。いつまでも夕暮れのまま、時計の針も動かぬこの部屋では、空気すら停滞しているような重苦しさが常に付き纏った。
 人気のないがらんとした教室がやけに広く思えたのは最初だけで、この教室をまるで檻の中のように感じ始めるのに時間は掛からなかった。校内でも歩き回ってみれば気が紛れるかと考えはしたが、結局はこの教室から一歩も出てはいない。確かめるのが恐かったのだ。懐かしく思えるはずの景色に拒まれ続ける自分を。
 気休めにと窓から外を見遣れば、そこにも記憶通りの光景が広がっている。広い校庭、通い慣れた通学路、寄り道した店。間違えようもない、あの街並み。幾つもの記憶が、引き出されては次々と鮮やかに蘇る。
 けれど窓の外にあるのは、眺めるだけの ―― 眺めているつもりになっているだけの、偽物の景色かもしれない。そんな恐れが心を凍りつかせる。
 目を凝らしても、道行く人影はない。人だけではなく、動物の姿もなかった。自然に見えて、その実ひどく不自然な景色。地にも空にも、生気というものが全く感じられない。
 ここは生者の世界か死者の世界か。ここにいる自分たちは、生きているのか死んでいるのか。
 ともすれば頭を過ぎる問いに、答えなど見付かろう筈もなかった。

「望美」
 呼ぶ声を聞いて我に返ったときには、もう将臣の指先が触れていた。頬に添えられた掌に促されるまま、向き直る。少し高い位置から見下ろしてくる彼の顔が、正面にあった。
 強い西日に横から照らされた顔。その表情が翳って見えるのは、夕暮れの光が作り出す深い影の所為だろうか。彼が本来持つ、真昼の明るい陽射しが似合う笑顔は欠片も見出せず、代わりに今は、憂えるような表情が浮かんでいる。
 眉を微かに顰めた将臣が、顔を寄せて覗き込んできた。視界を遮られて、間近にその目を見返す。まっすぐに向けられた視線は、何もかも吸い込むような闇の色だ。
 視線を絡め合わせたまま、将臣がまた距離を詰める。互いの顔以外の何もかもを、視界から追い出すかのように。目を逸らすことを決して許さない彼の仕草に、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 今、目の前にいる彼は、望美がずっと知っていた幼馴染みの『彼』とは、あまりに違った。望美がよく知っている『彼』は、視線を強く前に向け、よく笑い、思うことをそのまま口にするような、そんな人だった。こんなふうに、何かを押し殺した表情をする人ではなかった。言いたいことを吐き出せずに呑み込んで、苦しげな顔をする人ではなかった。
 胸に抱えたものはあまりに深く、大きく。口にしようとしても、言葉は詰まるばかり。この夢に身の置き場を求めたときから、幾度となくそんな思いをした。今の将臣も、きっとそうなのだろう。唇を開きかけて、将臣はまた口を噤んだ。
 彼が呑み込んだ言葉は、それでも視線から痛いほどに感じ取れるから、また胸が苦しくなる。縋る思いが、ふたりの間で共鳴しあう。
「……ごめん」
 外を見ていたけれど、ここから出たいわけじゃない。口には出さずに、心の奥で独りごちた。
 どこへも行かない。行きたくない。進んだ先にあるものなんて知りたくない。だから、ここへ逃げてきた。他の何も見たくなかった。彼以外は、何も。きっと同じことを彼も考えて……だから、ふたりしかいない世界がここにある。
 それは、夢。ふたりが望んだ通りの世界。

 ―― けれど、いつまで耐えられるだろう。

 無限に続くかと思う夢は、果てる時を知らず。終わりはどのようにやってくるのだろうかと、足元から恐怖が忍び寄る。望むことがこの世界を作り出したのなら、夢見ることを望み続ける限りこの世界は続くのだろうか。求め続ける限り、この世界は存在し続けるのだろうか。そしてそれを止めたとき、夢は終わるのだろうか、と。
 ふたりが望み続ける限り、この世界は壊れない。頑なにそう信じることだけが、今は救い。そして呪縛。独り取り残されれば気が狂うとわかっているから、例え果てのない時間に飽いたとしても、今更止めることなどできはしない。見始めた夢を、いつ尽きるとも知らぬまま漂うしかない。
 薄氷の上にある、残酷な幸福。過去を、今を、この先を考え始めてしまえば、逃げ込んだこの夢もまた、針の筵となるだけ。
 だから、何もかもを忘れるために、また目を閉じる。夢の中でさえ、瞼を閉ざして目の前の世界を遮る。そしてただ、触れ合う。抱き合う。くちづける。その感覚だけに縋って、溺れる。
 ―― 望んで見る、優しい夢。それすらいつかは捨てたくなるのではないかと、心のどこかで疑いながら。

Fin.