―― それは、この南の島には珍しいほど冷え込んだある日。暦は二月もちょうど半ばという、ある夜のことだった。

「今年はなにもないのか?」
 話のついでといった調子で切り出された言葉に、望美は怪訝な表情になった。なんのことかと、軽く眉間に皺を寄せる。
「今年は……って、なんのこと?」
 唐突な話題に、考え込んでいるのは時間の無駄だ。望美が聞き返すと、「お前、二月つったらアレだろ」と将臣からは真顔で答えが返ってきた。
 二月と言えば……と考えを巡らせて、ふと答えが浮かぶ。
「もしかして、バレンタインデー?」
 口にすると、ご名答、とでも言うように将臣が笑った。
 彼の言わんとすることはわかった。わかったけれど、望美としては余計に眉間の皺を深くするしかない。
 確かに、毎年この時期になるとチョコレートはあげていたけれど。お値段そこそこの、いわゆる"義理チョコ"を、隣の家に住む幼馴染みに渡すのは、恒例行事になってはいたけれど。
 毎年、大量にチョコレートをもらってくるこの幼馴染みは、それゆえか、行事自体には無頓着だった。その彼が、まさか、ここでバレンタインデーなんてことを言い出すなんて。しかもこんなふうにせがむなんて、まったく思いもしなかった。
「将臣くん……チョコ欲しかったの?」
 意外だな、という気持ちを隠さずに尋ねたけれど、対する将臣は平然としたものだ。ふと口の端で笑って、望美のほうを見返してきた。
「お前からは義理しかもらったことがないからな」
 だろ?という屈託のない笑顔に、なんだか力が抜けた。要するに“本命”扱いして欲しい、ということらしいけれど、望美としてはなにを今更と言いたくなるところだ。
 改まってそんなことをしている自分を想像すると、どうにもおかしな気分になる。照れ臭い、と言ったほうが合っているだろうか。とにかく、らしくない。
 なんとなく決まりが悪くて、目を逸らしながら口を開いた。
「ここにはチョコなんてないでしょ」
「んなのわかってるって」
 相変わらずの笑い声に、じゃあなんでそんなこと言うのよ、と心の中で毒づいた。そんな望美の内心が、将臣には手に取るようにわかったらしい。
「別にチョコレートじゃなくてもいいんだろ、本来はさ」
 さらりと告げた表情は余裕綽々、いつもの笑顔だ。その顔が、まるでこんなやりとりまで予測していたかのようで、少し癪に障る。
 ただし、言っている内容は至極もっともだから、反論のしようはない。思わず黙りこむと、「それにさ」と言葉を続けた将臣の口元が、また笑った。
「俺はもう用意したぜ?」
「え? 将臣くんが?」
 思いがけない言葉に、耳を疑った。今度こそはっきりと眉をしかめて、望美は将臣に聞き返す。
「だから、どっちがどっちに贈ったっていいんだろ?」
 その、しっかり用意されていたような答えに、望美は再び口ごもった。
 将臣がイベントの類を嫌いではないのは知っているし、ついでだという顔でなにかをくれるのも、初めてではない。
 三年越しだったにも関わらず、机の中のプレゼントを忘れなかった将臣のことだ。特に意識しなくても、他人に贈りものをできてしまう人なのかもしれない、とは思う。
 でも、それにしても、だ。
 よりにもよって、バレンタインにかこつけてプレゼントだなんて。付き合いが長いはずの望美ですら、調子を狂わされそうだ。
 いったい、なにを用意しているのやら。
 そう思って尋ねてみたのだけれど、返ってきたのは「まだ教えられねぇな」というあっさりとした答えだった。
「お前がくれたら、な」
「なにそれ」
 からかうような口調は、優位に立たれているようで、なんだか面白くない。
「交換条件なんて、将臣くんらしくないよ」
 こういうときに出し惜しみをしないのが彼の性分だと思っていたのに、堂々と取引を持ち出すとは考えなかった。
 暗に「ケチ」と挑発したつもりだったのだけれど、将臣は怒るでもなく、変わらぬ笑顔のままだ。
「たまにはいいだろ」
 悪びれず、真正面から言われては、どうにもお手上げだ。ふっと息をついて、望美は身体から力を抜いた。
「わかったけど……なにがいいの?」
「俺に決めさせんのか?」
「だって……」
 言い返そうとする望美の前で、将臣が喉の奥から忍び笑いを漏らすのが聞こえる。
 望美としては、当日になってこんなことを言い出すくらいなのだから、なにか考えがあるのではないかと勘繰りたくなるところだ。くつくつと笑っている、お決まりの笑顔の裏で、将臣はいったいなにを考えていることやら。
「ん? 別になんも考えてねぇぞ」
 けろりと答える将臣の顔を、望美はじっと見据えた。本当になにも考えてないのかな、と疑ってかかっても、見返してくる将臣の表情は相変わらず揺らがない。
 読めないな、と内心で溜息をついた。昔はもう少し、考えてることがストレートに出ていたはずなんだけど、とふと思う。
 隠し事なんて、うまくならなくていいのに。そういうところ、将臣も結構、損な性分なのではないかと思えたりもする。
 重いこと、深刻なこと、綺麗に隠し通すのは大変なはずなのに、誰に対してもそれをやってのけてしまうのが将臣なのだと。いっそ無意識の仕業かと思うほどさりげなくそれをこなしてしまうのだと。そんなことがわかってきたのは、これまでの長い付き合いを思えば、まだまだ最近のことなのだけれど。
 ―― 言ってよ、私には。
 口には出さずに、心の中だけで呟いて、望美は身を乗り出した。
「じゃ、今から考えて」
 今年は将臣くんが決めてよと、顔を覗き込む。対する将臣は、顔をしかめて少し面倒くさそうな表情になった。
「俺がか?」
「うん。でも、来年からはリクエスト受け付けないから。今年だけね」
 今度は望美が笑顔で答える。そうしながら、心の中で呟いた。
 そう、来年からはなにが欲しいかなんて、いちいち口に出させない。そのポーカーフェイスの裏側から、読み取ってみせる。
 無言の宣戦布告。それがわかったのかどうか、将臣が仕方ねぇなと笑った。口調こそぞんざいだけれど、顔には屈託のない笑みがある。
「んじゃ、手始めに」
 言うと同時に、将臣が手を伸ばしてきた。触れた指先のくすぐったさに、「手始めって」と思わず小さく笑い声が零れる。
「いいだろ」
 囁く声の思いがけない響きが、幼馴染み同士じゃれあうその場にロマンスを運ぶ。じわりと胸に広がる甘さに一瞬息を止めて、望美は静かに、降りてくる唇を受け止めた。

Fin.