『え? わたしが行ってもいいんですか?』
 フォークを持った手を止めて、花梨は思わず目を丸くした。
 終業式を目前に控えた休日のこと。ぽかぽかと陽射しが降り注ぐここは、とあるレストランの窓際に設けられたテーブルだ。
 おいしそうな料理を挟んで花梨が向かい合っているのは、今年の初めにひょんなことから知り合った女性で、名前を浅野礼子という。こちらの世界にやってきた頼忠をモデルなどという世界に引っ張り込んだ張本人で、今は仕事のマネージメントをしてくれている人だ。また、花梨たちふたりの事情を知ってくれている唯一の人間ということもあって、頼忠の仕事の面だけではなくて、花梨にとっても良い相談相手になってくれている。
 その彼女がサラダをつつきながら切り出したのが、『源くんが仕事してるところ、見てみたくない?』という誘いだった。
『近くまで来てるから、一緒に食事でもどう?』と浅野から連絡が来たのが、今日の昼前のこと。待ち合わせたレストランで、どれがおすすめなどということを聞きながらオーダーを済ませたところで、話は当然のように頼忠の仕事のことに及んだ。
『ごめんね、高倉さん』
『えっ?』
『せっかくのクリスマス・イブなのに、源くん、仕事入っちゃって』
『そんな、お仕事なんですから、気にしないでください』
 浅野に申し訳なさそうな顔をされて、慌ててフォークを置いた花梨は、ぱたぱたと手を振った。
『頼忠さんが元気にお仕事してるの、わたしも嬉しいですから』
 そう言って笑顔を浮かべた花梨の前で、不意に浅野は考え込む様子を見せた。そして、その彼女が顔を上げたかと思うと口にしたのが、仕事の様子を見に来てみないか、という言葉だったのだ。
『これまで、見に来たことってなかったわよね』
 そう尋ねられて、花梨は『はい』とうなずいた。
 平日は当然ながら無理なことだし、それでは学校が休みの週末はどうなのかというと、逆に頼忠の仕事がほとんど入っていない。どうやら、スケジュールを組む立場にいる浅野が、できる限り仕事を入れないようにと配慮してくれているということらしい。
 そんな心遣いのおかげで、不規則な仕事をしている頼忠とも、休日は頻繁に会うことができるのだが、だからこそ、仕事をしている姿は見る機会がなかったというわけだ。
『でも……本当にわたしが行ったりして大丈夫なんですか?』
 仕事という面から見れば、花梨は完全な部外者だ。立ち入ったりして本当に構わないのだろうかと訝ったのだが、対する浅野はあっけらかんとしている。
『構わないわよ、大丈夫。その日ならちょうど、私もずっといるから』
 明るく笑った浅野は、『それにね』と言葉を継いだ。
『みんな、高倉さんに会いたがってるから』
『……え?』
 サラダを口に運ぶ手をぴたりと止めて、花梨はまじまじと浅野の顔を見返した。
(会いたがってる、って……)
『な、な、なんで……』
 目を瞬かせていると、正面で浅野がにっこりと笑う。『あら、当然じゃない』と言い切る口調は、どこか楽しそうだ。だってね、と勿体を付けながら、花梨の顔をじっとのぞきこんでくる。『聞きたい?』とでも言うような視線に、花梨はこくこくとうなずいて続きを促した。
『だって、あの源くんの彼女だもの。一度会ってみたいって、みんな言うのよね』
『ええっ?』
 みんな、とは、いつも頼忠や浅野と一緒に仕事をしている人たちのことなのだろうけれど……どうやら知らないうちに、花梨のことは噂にされているらしい。
(な、なんて言われてるんだろう?)
 思ってもみなかった話に目を白黒させていると、『もちろん、詳しい事情は話してないから、そこは心配しないで』と、向かい合った浅野が頼もしく笑った。
『ね、来るわよね?』
 ただでさえエネルギーを発しているような彼女に、身を乗り出して言われてしまえば、到底逆らえようはずもない。
 浅野との別れ際、花梨の手には、スタジオの地図がしっかりと握らされていたのだった。

(えぇと、この角を曲がって……)
 十字路で立ち止まった花梨は、手元の地図で目印を確認すると、「うん」とひとつうなずいた。赤信号の向こう側には、目印として地図に書き込まれているのと同じ名前の看板が見えている。
 クリスマス・イブの当日、終業式を終えた花梨は、帰宅するとまたすぐに家を出た。手にしたバッグの中には、数日前に浅野から渡された手書きの地図と、スタジオの住所や最寄り駅が書かれたメモ。花梨の家からだと、電車を乗り継いで三、四十分もあれば着けるようだった。
 駅からは、地図を確認しながら歩くこと数分。どうやらスタジオまでは、この信号を渡ればもう間もなくらしい。記された目印はこれが最後で、あとはスタジオの場所まで、まっすぐに矢印が引っ張ってあるだけだ。
 信号が青に変わって、花梨は再び歩き始めた。『表向きは地味だから、見落とさないようにね』と言っていた浅野の言葉を思い出して、周囲を見回しながら足を運ぶ。この辺りは、駅前ほどではないにしても店がぽつぽつと点在していて、それぞれがクリスマスらしく飾り付けをしているのが、目に楽しく映った。
 目指す場所は、間もなくして見つかった。小さなプレートに、ごくシンプルにスタジオの名前が彫り込まれただけの構えは、確かに注意していなければ見落としてしまいそうだ。
 スタジオの敷地に足を踏み入れるとすぐに、入口の脇に浅野が立っているのが見えて、花梨はほっと表情を緩めた。花梨の姿に気付いた浅野が「いらっしゃい」と手を振ってくれるのに、軽く頭を下げて応える。
「すみません、お待たせしちゃって」
 浅野の前まで来て、改めて頭を下げると、いつもの調子で「いいのよ、そんなの」と明るい声が返ってきた。行きましょう、と促された花梨は、浅野に続いて扉をくぐった。

 短い廊下を抜けて、重い扉の内側へと入ると、そこはもう、たくさんの人が立ち働く撮影現場だった。花梨を案内してきてくれた浅野も、仕事の話があるらしく、「ちょっとごめんね」と言い置いて離れて行ってしまった。所在ない気分で、扉のすぐ隣に立った花梨は、壁に背中を預けながら周りを見回した。
 雑誌の撮影現場など、もちろん生まれて初めて見る。目に入る機材や、周囲の人たちが手にしているものなど、すべてが物珍しくて、ついまじまじと見つめてしまっては慌てて目を逸らす、ということの繰り返しだ。
 部屋の真ん中辺りには、撮影用のものなのだろう、簡単なセットが組まれている。強いライトの当てられたその場所に、今は、誰もいない。
(頼忠さん、どこなんだろう?)
 見慣れた姿を探して、さらに周囲に視線を走らせた。すると、光から外れた、陰になっているところで、誰かと話し込んでいる彼が目に入った。
 花梨のいるほうにちょうど背を向けている彼は、話し相手の言葉に、なにやらうなずいている。着ている衣装は、春を通り越して夏物一歩手前、というところだろうか。淡い色調の服は、彼が普段はあまり身に着けないような類のものだ。それだけに、花梨の目には新鮮に映った。
(こういう色も似合うんだ)
 小さな発見に、なんとなく顔が綻ぶ。今度、一緒にショッピングに行ったら、こういう色合いもすすめてみようかな、などと考えていると、その彼がふと動いた。
 ゆっくりとセットの中に移動した頼忠は、少しの間、そのまま立っていた。その静寂に、空気が張り詰める。その場にいる人々の視線が、光の中に立つ彼だけに、集中する。
 息をするのもはばかられるような緊張の中で、不意に腕を伸ばした頼忠が、置かれた椅子の背へとその手を掛けた。カメラに対して、少し斜めの立ち位置を取った彼は、首を捻るようにして、カメラへとまっすぐに視線を投げた。
(わあ……)
 心の中に、思わず溜息が漏れた。取り立てて意識した姿勢とも見えないのに、絵になっている。モデルとしては決して背の高いほうというわけでもないのだろうけれど、バランスの取れた体格と、すらりと背の伸びた姿勢の良さ、それに身に纏う独特の空気とが相まって、カメラの前の頼忠は、どこか圧倒されるような雰囲気を醸し出していた。
 そこには、京にいたころからずっと彼を見続けてきた花梨でさえも息を呑んでしまうようななにかが、ある。
(頼忠さん……すごい)
 リズムを刻むように、シャッターが立て続けに切られる。その音の合間に、ごく自然な動作で頼忠は体勢を変えてゆく。そんな彼の姿に、視線は惹き付けられたまま、離せない。
 ―― やがて、シャッターの音が止まって、頼忠が再びライトの下から姿を消した。同時に、張り詰めていたスタジオの空気も弛緩する。息を詰めて見守っていた花梨は、ようやく身体の力を抜いて、ふうっと溜息を吐いた。
「どう?」
 不意に声を掛けられて隣を見ると、いつの間にか浅野が立っていた。
「ご感想は? 高倉さん」
 緊張をほぐすように、浅野はにっこりと笑う。それで花梨も気持ちが落ち着いて、自然に口が開いた。
「……すごいですね」
 どうにも間の抜けた言葉だとは思ったけれど、素直な感想だ。被写体になっている彼にも、それを取り巻く空気にも、ただ圧倒されるばかりだった。静かな熱気のようなものが、自分の身体にまで入り込んでくるように思えた。
 室内の興奮そのままに目を輝かせる花梨に、浅野は満足げな笑みをこぼした。それからふと、いたずらめいた表情で、花梨に耳打ちをしてきた。
「惚れ直した?」
「えっ?」
 思わず浅野の顔を見返してしまったが、すぐに頬が熱くなったのが自分でもわかった。あの、その、と口ごもりながら、問いかけられた言葉を確かめる。
(惚れ直した、か……って)
 そうと言われてみれば、そうなのかもしれない。これまで目にしたことのない彼の一面に、確かに見惚れていた。こんなふうに光を放つ人なのだと、少なからず驚きながら。写真として雑誌に載っているものは見たことがあったけれど、こうして撮影のまさにその瞬間を見ると、写真から受けるよりずっと強い印象が心に残る。
(素敵な人なんだな、って)
 改めて思うから、鼓動が高鳴る。
 赤くなった顔のせいで、きっと浅野には、なにを考えているのか見通されてしまったに違いない。目を細めた彼女は、やっぱり高倉さんってば可愛いわぁ、などと呟いた。それを聞いて、いっそう赤面した花梨は、床に視線を落とした。くすくすと浅野の笑う声が、耳に届く。
「……あら、源くん」
 不意に笑い声が途切れたかと思うと、浅野が声を上げた。同時に、近くでぴたりと足音が止まる。顔を上げた花梨の前で、浅野は「お疲れさま」と軽く手を上げていた。そんな浅野に目礼を返して、頼忠がこちらに向き直る。
「花梨」
 目元を緩めて呼びかける彼は、先ほどカメラの前にいたときとは打って変わって、柔らかな雰囲気を見せている。いつもどおりの表情に、花梨も笑って「頼忠さん、お疲れさま」と言葉を返した。
「今日はずいぶんと順調みたいじゃない。この分だと、早めに終わりそうね」
 腕を組んだ浅野は、明るい声で言葉を掛ける。それを受けた頼忠も、軽く口元を綻ばせて、「そうですね」とうなずいた。そのまま時計に目を遣って、頼忠は少しの間、思案する様子を見せた。
「五時ごろには終わると思うが……」
 そう言って、頼忠は花梨を見た。続けて、どこかで時間を潰してくるかと聞かれて、花梨は「えぇと」と口ごもった。
「ここで見学してちゃだめですか?」
 頼忠と浅野、ふたりに向けて尋ねると、すぐさま浅野がうなずいた。
「もちろん構わないわよ。高倉さんなら、撮影の邪魔になるようなことはしないでしょ」
 いたずらっけのある視線に、つられて花梨も笑いながら「おとなしくしてます」と答えた。
 そんな様子がおかしかったのか、頼忠が目の前で小さく吹き出した。すると、それを見た浅野が、「あら珍しい」と目を丸くする。
「やっぱり、いつもとは違うわねえ……。っと、そろそろ始まるんじゃない? 次もがんばってね」
 目ざとく周囲の様子を見て取ったらしく、浅野が視線で頼忠を促した。浅野の言葉に笑いを収めた頼忠も、セットの辺りに視線を向けて、頷き返す。またあとで、と笑んで告げた彼が戻っていく後姿を、花梨もまた、微笑んで見送った。

「はい、お疲れさまでしたー!」
 大きな声が響くと、それまで張り詰めていた空気が、途端にわっと緩んだ。一気にがやがやと騒がしくなったスタジオの片隅で、花梨もまた、大きく息をつく。
 並んで撮影を見守っていた浅野が「ちょっと行ってくるわね」と傍を離れたのと入れ替わりに、今しがた撮影を終えたばかりの頼忠が近付いてきた。今の彼は、薄手のシャツに柔らかなコットン素材のパンツという出で立ちだ。普段、自分の部屋でくつろいでいるときとほとんど変わらない格好だが、素材や仕立ての良い服なのだろう、崩れた感じがまったくない。
「お疲れさま。早く終わったね」
 花梨が声を掛けると、すぐ傍に立った頼忠が壁の時計へと目を遣った。追いかけた視線の先、時計の針は、四時五十分を指している。少しばかりではあるが、休憩のときにしていた予想より、さらに早い。
 時間を確かめた頼忠は、花梨の顔に視線を戻すと、その目元に笑みを浮かべた。
「あまり花梨を待たせるわけにはいかないだろう」
 さらりと告げられた言葉に、「もう、頼忠さんってば」と花梨は顔を赤らめた。いくら、誰もが忙しそうにしていて、こちらに注意を払っている様子がないとは言っても、こうも堂々と言い切られてしまっては、どうにも照れ臭い。
 すぐに顔色を変える花梨を、どうも頼忠は面白がっているようなふしがある。それをわかっていて、それでも不意打ちのような彼の言葉には、どうしたって太刀打ちできない。
 言葉の出なくなってしまった花梨を、頼忠は笑って眺めていたが、そこへ遠くから頼忠を呼ぶ声が聞こえて、背後を振り向いた。呼びかけてきた相手に軽くうなずいてみせると、再び花梨を見る。
「帰り支度をしてくる」
 そう告げる彼の顔は、すっかりいつもどおりの穏やかな表情を浮かべていて、その切り替えの早さに花梨としては内心、ずるい、と呟いてしまうのだけれど。柔らかな笑みを向けられてしまえば、降参するしかない。
「じゃあ、入口で待ってるね」
 そう答えて彼を見送る自分の顔にも、微笑が浮かんでしまう。それはもう、どうしようもなく自然に。彼が笑顔を向けてくれるようになったころから、当たり前のように。
 頼忠の姿が視界から消えると、花梨は「さて」と気を取り直して、浅野の姿を探し始めた。忙しくしているかもしれないけれど、帰る前にひとこと挨拶はしていったほうが良いだろう。
 どこだろう、ときょろきょろ辺りを見回す花梨が浅野を見つけるより早く、彼女のほうから「高倉さん!」と声が掛けられた。見れば、浅野が「ちょっと来て」と笑って手招きしている。
(なんだろう?)
 首を傾げながら近付いていくと、浅野と話をしていた数人の視線が、一斉に花梨に向けられた。反射的に、身を竦めかける。
「高倉さんね? 初めまして」
 すぐに声を掛けてきたのは、浅野のすぐ隣にいた女性だった。明るい色の髪をくるりと纏め上げたその女性は、どこか浅野に似た、豪快な笑顔を見せている。
「あっ、はい、初めまして」
 その笑顔に押されるようにして、花梨はその場の女性たちにぺこりと頭を下げた。それから顔を上げてみれば、花梨を取り囲んだ女性たちは、その視線に気さくな雰囲気を漂わせて花梨を見ている。
「なるほどねー」
「ホント、浅野さんが言ってたとおり」
「なんだか感動だわぁ」
 口々に声を上げる女性たちは、なにやらうなずいたり、顔を見合わせたりしている。ひとり、状況を掴み損ねて、花梨は助けを求めるように浅野を見た。花梨の視線に気付くと、ふふっと笑って浅野が口を開く。
「いつも一緒に仕事してるスタッフよ。みんな高倉さんに会いたがってるって言ったでしょう?」
 浅野の言葉で、数日前のやりとりを思い出して、花梨は「あ……」と声を上げた。
「あの源くんの彼女、だもの。みんな前から興味津々だったの。今日連れてくるって言ってあったから、それはもう楽しみにしてたみたいよ。ね?」
 最後は周囲に向けての台詞に、女性たちは揃ってうなずいている。その言葉を裏付けるように、花梨を見つめる視線はとても楽しげだ。
「そ、そんな……」
 満面の笑みに囲まれてあたふたしているところに、浅野がひとりずつ名前を紹介してくれたが、到底覚えていられる自信はない。聞くそばから、耳を素通りしていっているような気がする。
(ど、ど、どうしよう)
 内心慌てふためく花梨に、「高倉さんに会ったら、聞いてみたいことがたくさんあったのよ」と話しかけてきた女性は、なんという名前だったか。
 とにかく、その言葉を皮切りに質問攻めにあった花梨が、ようやく解放されたのは、すっかり帰宅の準備を整えた頼忠が、待ちかねて迎えに来てからだった。

 すっかり日も暮れて、外は急激に冷え込み始めていた。歩いていると、時折吹き抜ける風に、思わず肩を竦めてしまうほどだ。
 それを理由にして、というわけではないけれど、スタジオをあとにしたふたりは、ぴたりと肩を並べて歩いていた。本当なら腕でも組むものなのだろうが、あいにく、花梨の両手はふさがっている。
 花梨が両腕でしっかりと抱えているのは、花束だ。撮影に使っていたものを、手土産にと言って浅野が渡してくれた。柔らかな色の薔薇は、かなりの本数があって、相当に値が張りそうだ。もらってしまったりして良いのかと思ったのだが、浅野はいつものように、さらりと花梨の言葉を受けて、『記念よ』と笑った。
『それに、源くんの部屋なんて、どうせ殺風景なんでしょう? 花くらい飾ってあげて』
 そんなふうに冗談めかして言われれば、気分がほぐれる。結局、『ありがとうございます』と素直に受け取ってくることになった。
 もともと、花束として作られているものではなくて、ばらばらに置いて使われていたものだ。持ち帰るときに、ありあわせの紐で括っては来たが、しっかりと抱えていないと落としてしまいそうだ。遠目に見れば、隣にいる頼忠からの贈り物と見えるのだろうけれど、近付いてみたらそんな状態なものだから、すれ違う人々がことごとく不思議そうな表情を見せてゆく。それに気付くたび、ふたりで顔を見合わせて笑った。
 今歩いている辺りは、別段、イルミネーションの名所というわけではないけれど、それでも並んだ店のショーウィンドウや、家々の門前、あるいは庭木などが綺麗に飾り付けられていて、クリスマスらしい雰囲気を作り出している。
 ぴかぴかと点滅する光を追って、周囲をきょろきょろと見回していた花梨の目に、ふと一軒の店先が留まった。通りに面して広く取られたショーウィンドウの中には、サンタクロースとトナカイを象った大きなオーナメントが置かれている。「わぁ」と声を上げた花梨は、そのショーウィンドウへと足を向けた。
「頼忠さん、見て見て」
 そう言って、中をのぞき込む。
 足元に綿の雪を敷いたサンタクロースとトナカイは、かなり精巧な作りで、ガラス越しにもはっきりと、その表情までもが見える。満面の笑顔を浮かべたサンタクロースは、飛びぬけて陽気な表情。そしてトナカイは、もちろん人間の表情とは違うけれど、やはりどこか楽しげに見える。
 よく見れば、サンタクロースが担いだ大きな袋の中には、ちゃんとプレゼントの箱までのぞいている。格子柄のリボンまで掛けられた細工の精緻さに、花梨は「すごーい」と感嘆の声を漏らした。
「ね、あの箱なんて、ちゃんと包装紙の柄まで描いてあるよ」
 ほら、と頼忠を見上げて ―― 、そこで花梨は、思わず動きを止めた。
 まっすぐに花梨を見ている目が、柔らかく笑っている。彼が動いた気配はなかったから、もしかしたら花梨がショーウィンドウの中をのぞいている間、彼はずっと自分のほうを見ていたのかもしれない。
 ぴたりと口を閉ざしたまま見上げていると、頼忠の目の中におかしそうな表情がのぞいた。
「どうした?」
 笑い含みに尋ねられて、言葉に詰まる。わかってるくせに……と、内心、口を尖らせる。
 それでも怒ってみせるような気になれないのは、微笑んだ彼の視線がどうしようもなく優しいからだ。たとえ花梨をからかってみせているようなときでも、瞳の中だけは、とても、温かい。
―― きっと)
 彼は、こんなふうに、いつも見ていてくれるのだろうと思う。花梨が気付かないときでも、温かい視線を注いでくれているのだろう、と。
 ふと目を合わせた瞬間に、その微笑に思わず息を止めてしまうけれど、そんなふうに花梨が見上げる前から、彼は自分を見ているのだ。柔らかく、温かく。
「花梨?」
 そう呼んでくれる声も、本当に、いつもいつも、優しくて。耳をくすぐって、心を温かくさせる。
 こんなとき、照れ臭くてつい視線を外してしまう自分は、まだまだ余裕を持って彼を見つめ返せるほど大人ではないけれど。応える術を、多くは知らないけれど。
「……そろそろ、帰ろう?」
 目を伏せたまま囁いて、両手で抱えていた花束を、片腕にしっかりと持ち直した。空いた手を伸ばして、彼の腕に触れる。
 コートの肘の辺りを掴むようにすると、その手を見下ろした彼が、ふっと唇に笑みを浮かべた。花梨の手を取ってコートから外させると、自分の手のひらでしっかりと包み込む。
 ぎゅっと手を握られて、花梨は思わず顔を跳ね上げた。見上げた先の表情は、幾度出逢っても決して慣れてしまえない、笑顔。呼吸を止めてしまうほどに鮮やかな、花梨だけに向けられる表情。カメラの前に立つときより、もっともっと強い光を、花梨の心に投げかける。
 歩き出す彼が、繋いだ手から花梨を引き寄せた。されるままにふわりと寄り添ってゆっくりと足を運びながら、耳の横にある彼の腕に、そっと頭をもたせ掛ける。
 視界を流れていく光の波。赤、橙、黄色……輝くイルミネーションは、どれも暖かな色合いだ。
 けれど ――
 なにより一番温かなものが、今、手のひらの中にある。そんな思いで、胸が満たされる。
 吐く息の白さすら優しい気持ちで眺めながら、花梨は繋いだ手を、しっかりと握り返した。

「これで良し……っと」
 花の向きを綺麗に整えて、花梨はダイニングテーブルに花瓶を降ろした。白熱灯の光に照らされて、花びらのオレンジはいっそう暖かそうに映る。
 ―― 花束をもらったのは良いが肝心の花瓶がない、ということで買いに寄っていたものだから、まっすぐ帰るよりずいぶんと時間を食ってしまった。しかも、入った店がまた雑貨の充実したところで、目当ての花瓶のほかにも、ついあれこれと眺めてしまったおかげで、すでにディナーには少々遅い時間だ。
(でも、いい買い物、できちゃった)
 ふふっと笑って見つめる視線の先、テーブルには大きな袋が置かれている。そしてその足元には、これまた花梨の膝の上ほども高さのある、大きな箱。その中身は、この季節の必需品、クリスマス・ツリーだ。雑貨店の中でこれに目を付けたのは花梨のほうで、「せっかくだから飾ろう?」と頼忠に尋ねてみた。うなずいた彼と一緒に、オーナメントもひとつひとつ選んで、こうして買って帰ってきたわけだ。
 その頼忠はというと、帰宅して早々からキッチンに立ち、夕食の準備をしている。料理ができあがる前にツリーを飾り付けてしまおうと、花梨は箱の前にかがみ込んだ。
 いざ箱を開けようとしたところで、不意にもうひとつの買い物を思い出した花梨は、はたと立ち上がった。テーブルの上の袋を、ごそごそと探る。
 取り出したのは、CDのケースだ。クリスマス・リースの写真が刷られたジャケットを眺めながら、セロファンの包みを開けていく。中に収められていた、クリスマスカラーに彩られたディスクを取り出して、部屋の隅に置かれたデッキへと静かに滑り込ませた。
 やがて流れ始めるのは、耳に馴染んだクリスマス・ソング。この時期、街のそこかしこで流れている曲が、オルゴールにも似た済んだガラスの音色で奏でられている。
 柔らかな音が部屋中に行き渡るようにと、心持ち音量を上げた。そうするとキッチンにも聴こえるようで、フライパンを手にした頼忠が、ちらりと振り返ってデッキのほうを見た。
「音、大きすぎる?」
 気になるのかと思って尋ねてみたが、頼忠は軽く首を振った。
「いや、そのままでいい」
 そう答えてコンロに向き直る彼の唇には、微かな笑みが浮かんでいる。
 花梨もまた、聴こえるメロディーに合わせて小声で歌詞を口ずさみながら、再びツリーの箱の前へと戻っていった。

 綿の雪に、木でできたリンゴ、色とりどりのリボンに、きらりと光る星。仕上げにぐるりと電球を巡らせれば、ツリーの飾り付けは完成だ。電球のスイッチを入れてから、ツリーを一周して飾りの具合を確かめた花梨は、「うん」と誰にともなくうなずいた。
 さほど大きくはないツリーに合わせて、オーナメントも小ぶりのものを選んだから、数が多くてもごちゃごちゃした感じはしない。点滅を繰り返す電球に照らされて光る様子は、本当に綺麗だ。
 二、三歩下がってツリーを眺めていると、後ろから「終わったのか」と声を掛けられた。どうやら料理のほうもあらかたできあがったようで、頼忠は両手に料理を盛りつけた皿を持っている。
「うん、これでどうかな?」
 花梨が首を傾げて尋ねると、皿をテーブルに置いた頼忠は、「ああ」とうなずいて目元を綻ばせた。言葉は短くても、微笑んだ表情はどことなく楽しげで、見ている花梨まで嬉しくなる。
「それじゃあ、食事の支度、手伝うね」
 そう言いながら、グラスやカトラリーを取り出し始めると、「ああ、頼む」と答えて、頼忠はまたキッチンへと引き返して行く。
 テーブルの上を整えている間に、また料理が一品、彼の手で運ばれてきた。
「わ、おいしそう」
 皿に盛られた料理を見て、思わず花梨は声を上げた。
「頼忠さん、どこでこういうお料理、覚えてるの?」
 尋ねた言葉は、笑顔だけでさらりとかわされたけれど、それならそれで構わない。おいしそうな湯気の前で、細かいことは後回しだ。
(クリスマスだもの)
 おいしい料理があって、暖かな空気の満ちた部屋にいる。それで十分、楽しい気持ちになれる。細かいことなど、気にする隙もないほどに。
 幸せだと、込み上げる思いを心の中にそっと溶かして、テーブルの前に立った花梨は、部屋を見渡した。その視線を、先ほど飾り付けたばかりのツリーに留めて、ふと考えが浮かんだ。
(そうだ)
 ツリーの置かれた窓際に近付くと、テーブルの辺りから見て、ちょうどツリーが映り込む辺りだけ、カーテンを開けてみた。そうすると、窓の外は真っ暗だから、ガラスにツリーの灯りが映って、いっそう綺麗に見えた。
 吐いた息で、ガラスがうっすらと曇った。かなり冷え込んでいるなと思いながら窓の外をのぞき込んで、花梨は小さく声を上げた。
「雪が降ってる……」
 そう言えば今朝の天気予報で、もしかしたらホワイト・クリスマスになるかもしれない、と言っていたことを思い出す。予報どおりの雪に、きっと今ごろ、歓声を上げている人がたくさんいるだろう。
 ぴたりとガラスに顔を寄せて外を見ていると、近付いてきた頼忠が、「花梨?」と呼びかけてきた。
「ね、頼忠さん、雪が降ってるよ」
 振り向いてそう告げると、頼忠も窓に顔を近づける。花梨のすぐ後ろに立って、外に目を凝らしているようだった。
 ―― 静かに降り積もる雪を、そのままふたりで眺めていた。思い出しているのは、もしかしたら同じことかもしれない。
「……あっちでも降ってるかな」
 花梨がぽつりと呟くと、小さく息をついた頼忠が「今ごろなら、きっと降っているだろう」と穏やかにうなずく。
「そうだね、きっと、降ってるよね」
 彼の言葉を繰り返すように、唇に乗せた。
 思い出す、京の雪景色。その中で育んだ想い出は、今も胸に温かい。
(好き、って……)
 互いの想いを伝え合ったのも、こんな寒い中だった。気持ちを通じ合えたと知ったとき、冷たいはずの雪が、きらきらと眩しく、そして暖かく、目に映った。
 きっと、ずっと忘れない。あのときの想い、触れた手の温もり。
(出逢えて良かったって、心から思ったことも)
 思い出せば、気持ちが溢れて涙ぐみそうになる。そんな記憶の、数々。
 不意に後ろから、頼忠の腕が伸びて、抱き寄せられた。寄り添わせた身体は、まるで極上のコートのように温かい。
「花梨」
 呼ぶ声が少しだけくすぐったくて、そしてとても幸せで、また唇に、笑みが浮かんだ。たくさんのことを口にする必要はない。そう思うから、花梨は振り向かないままで、「うん……」とだけ小さく答えた。
 笑う彼の吐息が、頬に触れる。耳元で囁かれた言葉に顔が熱くなって、ごまかすようにうつむいた。
「……ごはん、冷めちゃうよ」
 そう言って彼の腕を解こうとすると、余計に力を込めて抱き締められる。頬に添えられた手に、柔らかく後ろを向かされた。
 思わず見開いた目に、彼の顔が映る。優しく細められた目、微笑んだ視線に見つめられて、目を瞬かせた。
 ふっと笑った唇が、近付いてくる。囁く声と吐息とを感じながら、花梨はそっと、まぶたを閉ざした。

Fin.