久しぶりにのんびりとした日曜日だった。窓の外からはこれといった騒音も聞こえず、なにもかもがぽかぽかとした陽射しの中でくつろいでいるような、そんな昼下がりだった。
 ソファの上、気持ちよく温まった陽だまりの中にいると、ついうとうとと眠気に襲われてしまう。睡魔を追い払うように二、三度瞬きをして、花梨はきれいに晴れ上がった空へと目をやった。のんびりとした気分で、白いカップを手に取って口元へと運ぶ。幾分冷めかけた紅茶の渋みが舌に感じられて、ぼんやりとしていた頭が少しすっきりとした。
 春休みに入って間もないこの日、花梨は源頼忠の家を訪れていた。彼は、花梨の通う高校で数学を教えている教員で、同時に花梨の恋人でもある。
 ふたりが時折、こうして彼の部屋で時間を過ごすようになって、早いものでもう一年以上が過ぎた。彼と付き合い始めた頃、まだ花梨は一年生だったが、この短い春休みが終われば、いよいよ高校生活も最後の年を迎えることになる。
「もう三年生になっちゃうんだ……」
 改めて考えてみると、これまでの二年間があっという間だったようにも思えて、花梨は溜息混じりに呟いた。嬉しいような、嬉しくないような、なんとも中途半端な気分だ。そんな花梨の心のうちがわかったのか、隣から小さく苦笑する気配が伝わってきた。
 振り仰ぐと、視線がぶつかった。おかしみをのぞかせていた彼の目が、すっとまじめなものに変わる。
「大学、どうするんだ?」
 尋ねてくる声は、半分恋人、そして半分は『先生』だ。担任でもなければ進路指導の担当でもない彼と学校で進路の話をすることはないから、受験だなんだという話は、必然的にふたりきりのときに限られてしまう。花梨としては、ふたりでいるときにわざわざ気の重くなるような話題を持ち出したくはないのだけれど、このあたり、やはり彼は教師だということか。話が勉強や進路のことに向くと、表情が変わる。
 もっとも花梨にしたところで、進路の相談ができることをありがたく思わないわけもない。少し考え込んでから、花梨は「近いところがいいなって思ってるんだけど」と、思い当たる大学の名前を二、三ばかり挙げてみた。花梨が考え考えしながら並べていく名前を、彼もまた思案顔で聞いている。軽く腕組みをしたまま、微かにうなずく仕草で花梨に先を促した。
 ここは家から一番近いけれどレベルが少し高いだとか、こっちは逆に遠いのが気にかかるだとか、とりあえずは思いつくままに考えを口に出した。聞いている彼の表情はまったくと言ってよいほど変わらないから、どんな感想を持っているのかはわからない。
 花梨の言葉が途切れても、彼はそのまま、なにを言うでもなく黙っていた。部屋の中がまた静かになって、先ほどまでより少しだけ空気が重く感じられた。
(先生、どんなこと考えてるのかな)
 伏せた視線をじっとどこかに据えているのは、考え事をしているしるしだ。自分の受験のことを一緒に考えてくれるのは嬉しいけれど、少しさびしい気持ちにもなる。
(せっかく、一緒にいるのに)
 ふたりで過ごせる時間が限られているからこそ、傍にいられるときは、ふたりで楽しい話をして、笑って、寄り添っていたいと思う。話だけなら電話でもできるけれど、ゆっくりと顔を合わせていられるのは、この部屋にいる間だけなのだから。
 それなのに、と思うと、言っても仕方のないことだとわかっていながら、つい愚痴がこぼれてしまう。
「なんで受験なんてあるのかなあ……」
 呟いた声は小さかったけれど、それに続いた溜息は存外深いものになってしまった。
 三年前にもやはり、高校受験のことで頭を悩ませた。両親は口やかましく『勉強しなさい』と言うような性質ではなかったけれど、それでも受験の重圧は、一年ほどの間、いつも圧し掛かっていたものだ。
 それが今度は大学受験となると、一段と気が重い。考えなくてはいけないことがたくさんあって、受験勉強もしなくてはいけなくて。
 それまで過ごしてきた場所を巣立って、また別のところへと入っていく。そのこと自体は、中学生から高校生へと立場を変えたときと、大して変わらないように思うのに。その行き先が大学となると、途端に将来のことを突きつけられる。
 どんな仕事に就きたいか。そのために大学でどんなことを勉強したいか。それにはどの大学に行って、なにを専攻するべきなのか。
 そんなことを、いちどきに考えさせられる。
(将来、なんて……)
 まだ、これから何年も先のことで、あまりにも漠然としていて、とてもはっきりとは思い描けない。それなのに、もう、これから数か月である程度のことを決めなければいけないという。
(今、わかってることなんて、ほとんどないのに)
 ―― 大学を出たら、働いてみたいとは思っている。自分にどんなことができるのかわからないけれど、なにかを身に付けて、それを役立てられたらいいなと思う。
 高校生の、今の自分が得意なことを、そのまま先に繋げていければ良いのだろうけれど、例えば日本史に現国、古文、……それから、数学。それがいったい、なにに繋がるんだろうと考えてみても、想像が付かない。
(先生は、どうやって決めたんだろう?)
 教師になろうと思ったきっかけがなんだったのか、そういえば聞いたことはない。
 彼の授業は、欲目抜きで見ても、確かにわかりやすいと思う。淡々と進む授業には脱線も冗談もなくて、だから「厳しい」「こわい」などと言われてもいるけれど、しっかりと予習をして授業を聞いていれば、ついていくのはそう難しくない。そう考えると、きっと「教える」ことには向いているのだろう。学生の頃から自覚があったのかどうかはわからないけれど。
 数学を選んだのは、単に得意だったからなのだろうか。それともそれ以上に、なにか思うところがあったのだろうか。
(数学が好き、とか……)
 花梨にしてみれば、数学そのものが好きか嫌いかと問われれば、今もって好きとは言えない。だいたい、以前は本当に苦手な科目だったのだ。中学の頃から予習には苦労しどおしだったし、わかるように復習するにも時間がかかった。高校受験のときにしたって、一番の弱点は数学で、最後まで一番時間を割いて勉強していた。
 それが今では得意科目のひとつだというのだから、おかしなものだと思う。あれだけ苦手だ苦手だと思っていたのが、今ではそれほどでもない。
 もし、彼がこの高校で数学を教えていなかったなら。あるいは、花梨のクラスを担当することがなかったなら。きっと花梨にとって数学という科目は、今でも中学のときと変わらず、一番の苦手科目だっただろう。
 また、たとえ彼に数学を教わっていても、彼を好きになることがなかったなら。少しくらいは苦手意識が薄れたかもしれないけれど、それでもやはり、得意になるなどということは到底なかっただろう。
 誰かを好きになる。そんなことで数学が得意になるなんて、どうにもおかしな気分だ。恋愛と数学なんて、どこをどう突付いても関係なさそうに見えるのに。
 そもそも『先生』を好きになったことや、恋人になっていることも含めて、予想も付かないことが人生にはいろいろ起きるんだなと、改めて思う。けれど、それならこれから先だって、思いがけないときに思いがけない楽しいことや素敵なことが起こる、なんていうことが、何度もあるかもしれない。
(いつでも一生懸命がんばってれば、きっと、悪いことばっかりじゃないよね)
 少しばかり気を楽にして、花梨はカップに残っていた紅茶を一息に飲み干した。

 花梨があれこれと思いをめぐらせているうちに、頼忠のほうは自分の考え事に区切りを付けてしまっていたようだった。花梨が空になったカップを下ろしたところで、彼が横からそれをさらって立ち上がった。反対の手には、彼の使っていたカップがある。
 キッチンに立った彼が、背中越しに「もう一杯飲むだろう?」と尋ねてきた。うん、と答えて、花梨はその背中を見るともなく眺めた。
 手際よくポットを火に掛けた彼は、すぐに戻ってこようとはしなかった。背中を向けたまま、黙ってコンロの前に立っている。少しの間、火の燃えるごく微かな音以外、なにも聞こえなかった。
 花梨の目に映る彼の広い背中には、どこか声を掛けるのをためらわせるような気配があった。どうしたの、という言葉を喉元で呑み込んで口を噤むと、彼のほうが先に口を開いた。
「高倉」
 花梨を呼んだ彼は、こちらに背中を向けたままだ。
「……受験が終わるまでは、あまりここに来るな」
 告げられた声は少し硬くて、感情をうかがわせない。後姿からは、彼がどんな表情をしているのかがわからなくて、それが少しさびしかった。
(受験生、なんだから……)
 仕方がないのは、わかっているつもりだ。彼の言うことは、『先生』にしてみたらもっともなことで。ふたりきりのときでも、どこか教師の部分を残しているような人だから、きっと今の言葉だって、ただそういう意味で。
 わかっている。それもまた、やさしさなのだと、よくわかっている。それでも、今までだって、会える時間が足りないと感じることがあったのに、これからはもっと減ってしまうのかと思うと、つい嫌だとわがままを言いたくなってしまう。頭でわかっていても、心が、割り切れない。
 答えるでもなく俯いていると、ようやく彼が戻ってきた。花梨のすぐ隣で、ソファに身体を沈める。
 つられて少し傾いた身体を、逆らわず彼に預けた。もたれかかって、肩先に額を擦り寄せる。微かに感じる彼の匂いに、深く息を吸い込んで目を閉じた。
 頭上で彼が、笑いとも溜息ともつかない吐息を漏らした。大きな手のひらが、ゆっくりと髪を撫でるように動く。
 なだめるような仕草は、花梨がうまく言葉にならない想いを抱えているようなとき、いつも彼がしてくれるものだ。そうすると、安心する。理由もないままに、心が緩む。そしてふと、涙ぐみそうになる。そのこともわかっているかのように、彼は指先を髪の中へと滑り込ませて、抱き寄せてくれるのだ。
 彼の息遣いが、耳元に聞こえる。不思議なもので、こうしていると彼の顔が見えなくても、その心が少しわかるような気がした。 ―― 苦しいと思っているのは、自分だけではないのだと。つらいと感じているのは、彼もまた同じなのだと。けれど、それでも ――
「あと一年だろう?」
 穏やかに、諭すように、彼が囁いた。一年、という言葉に込められた意味を、花梨も心のうちで噛み締める。
 あと一年経てば、もう『教師と生徒』ではなくなる。出逢ってからこれまで、ずっと当たり前のものだった関係が、変わる。
 その日まで、あと一年。彼と付き合うようになってすでに一年以上経っていることを考えれば、残りの一年は短いようにも思える。思えるのだけれど、やはりまだまだ先のことのようにも感じられて、とても待ち遠しい。
「早く、卒業したいな」
 これまでに幾度、同じことを思っただろう。卒業したら、という言葉で先送りにしてきたこと、我慢してきたことが、たくさんあるのだから。
 普通なら隠す必要もないようなことを、たくさん隠してきた。嘘も吐いてきた。そのたびに思っていた。いろいろなことを正直に言えたなら、どんなにいいだろう、と。そんなもどかしさや歯がゆさを、自分も、そしておそらく彼も、抱えてきた。
(先生にだって、きっとたくさん、大変なことがあるはずだよね)
 逆の立場を想像するのは簡単なことではないけれど、花梨と同じようなことで心を痛めたり、あるいは花梨には考えも付かないようなことで悩んだり、そういうことがいくつもあったのだろうと思うのだ。
 花梨がこの高校を卒業すれば、彼の『生徒』でなくなってしまえば、もっと自由になれる。周囲の目からも、自分たちの心にも。抱えているさまざまな思いを口に出すことを、きっと、自分に許してあげられる。
 一回り近くも年の離れた恋人なら、普通はもっと、素直に甘えても良いのではないかと、たまに思うことがある。けれど、互いの立場を意識すると、つい言葉を呑み込んでしまったり、気持ちを隠そうとしてしまったり、ふたりでいても、そんなことが多い。
 彼にとっては、そんな花梨の心の動きなどお見通しの部分もあるだろうけれど、逆に彼がどんなことを思っているのか、少ない言葉や変化の少ない表情の裏に隠しているのか、花梨にはわからない。それで、不安になったり、また余計に気を揉んだりしてしまう。
(わたしが『生徒』じゃなくなったら、先生、もっと本音を言ってくれる?)
 腹の立つことがあったなら、怒って欲しい。なにかして欲しいのなら、わがままだって言って欲しい。望むこと、望まないこと、それをありのまま伝えて欲しいと思う。
 もともと寡黙な性質の彼に、決して多くを望もうとは思わないけれど。それでも、今よりもっともっと、源頼忠というその人を、知りたいと思う。
 顔を上げて、彼の目をのぞきこんだ。今はまだ、正直になりきれない言葉の代わりに、目を見交わして心を通わせる。近づけば近づくほどいろいろなことを教えてくれる、この瞳と、話をする。
(わたしが卒業したら……ね?)
 そのときは、もっとたくさんのことを話して、と。言葉にはせずに、ただ彼の目を見つめたまま、微笑んだ。花梨のあとを追うように、彼の目にも笑みが広がる。まるでうなずくかのように、彼が一度、瞬きをした。
 待ち遠しい、と囁いた彼の手が、花梨の顔に触れる。滑るように伸ばされた指が耳元を掠めて、そのくすぐったさに花梨は小さく肩をすくめた。
 彼の顔が、ゆっくりと近づく。温かな手のひらに頬を預けて、花梨はそっと目を閉じた。
 そこへ突然、ピーッと高い音が聞こえて、驚いた花梨はぱっと目を開けた。見れば、コンロの上でポットがカタカタと鳴っている。そういえばお湯を沸かしていたんだった、と思い出して、花梨は詰めていた息を吐き出した。
 同じようにキッチンに目を遣っていた彼が、花梨の顔に視線を戻す。目が合うと、決まりが悪いやら照れ臭いやらで、顔が熱くなった。けれど、それを見て彼が笑いを噛み殺したりするものだから、結局はつられて花梨もくすくすと笑い出してしまう。
「火、止めなくていいの?」
 ふたりで顔を見合わせている間にも、聞こえる音は高くなる一方だ。そろそろ止めないと、と笑い混じりの声で花梨が告げると、ちらりとキッチンに視線を投げた彼は、花梨にすばやくくちづけて、それからようやく立ち上がった。

 お茶をもう二杯ほどお替わりした頃には、すっかり夕方になっていた。春分を過ぎてずいぶん日が伸びてきたとは言え、まだまだ日が暮れるのは早い。
 玄関口で靴を履いた花梨がくるりと振り返ると、目を合わせた彼が「気を付けて帰れ」といつものように言った。返事の替わりにひとつうなずいて、花梨は彼に背を向けるとドアノブに手を掛けた。
 それじゃあ、と口を開こうとしたところで、「それから……」と彼の声がして、花梨はもう一度、後ろを振り向いた。
「勉強でわからないところがあったら、いつでも来るといい」
 さらりと言われた台詞に、花梨は目を瞬かせた。嬉しい言葉に違いはないけれど、少しばかり引っかかるところがある。
「先生、さっき、あんまり来るなって言わなかった?」
 そのときの落ち込んだ気分を思い返すと、そうあっさりと言うことを変えるなんて、と文句のひとつも言いたくなる。「来ていいの? いけないの?」と強い口調で聞き返して、下からじっと見上げた。しかし、睨むような花梨の視線にも、彼は平然とした表情だ。
「質問があっても、学校では聞きに来られないだろう」
 答える声は至極まじめなものだったが、どことなく笑いを堪えているように聞こえるのは、花梨の気のせいではないだろう。(先生、わたしのことからかってるんじゃ……)と訝りながら、花梨がしかめっ面を崩さずにいると、「それに」と今度は明らかに笑い含みの声がした。
「まったく来るなとは言っていない」
「それはそうだけど……」
 口ごもって俯く花梨に、今度は笑いを収めて、なおも彼が言葉を継ぐ。
「たまには来て欲しい。……特に質問がなくても」
 そう告げながら、指先で頬を撫でたりするものだから。
(ずるい)
 絶対にずるい、と花梨は内心、くちびるを尖らせた。からかうだけからかっておいて、急にやさしいことを言う。振り回されて怒ったり拗ねたり照れたりするのは、花梨のほうばかりだ。しかも、最後に告げる言葉は、決まっててらいのないストレートなものだから、どうしたって幸せな心地にさせられてしまう。照れ臭いのを隠すのに苦労するほどに。
 悔しいやら嬉しいやら、いろいろな感情がごった返すまま、花梨は「先生」と呼びかけた。
「……キスしていい?」
 尋ねておいて、顔を上げる。少しは驚いたのか、彼は目を瞠っていた。その表情に笑みが混じるより早く、抱き付いてくちびるを重ねる。
 この程度のささやかな不意打ちで、彼に仕返しができたとは思わないけれど。驚いた顔を見たおかげか、悔しいと思っていた気持ちは収まったようだ。彼の両腕にしっかりと抱き返されれば、心地好さがあとに残る。
 ―― 四月になって、三年生になって、そうすれば否応なしに『受験生』で。あれこれと思い悩むことも少なくない、そんな一年間になるだろう。
(それでも、この腕が傍にあるから、きっと大丈夫)
 季節がひとめぐりして再び春が訪れるまで、なにがあっても、なんとかやっていけると信じていられる。迎える春が幸せなものだと思えば、いつでも前を向いていられる。
 くちびるを離して、ふたりで笑い合った。腕を解いて、今度こそ花梨は「それじゃあね」と別れを告げる。ドアを開きかけたところで、ふと言うことを思いついて、彼を振り返った。
「先生」
 上目遣いに彼を見上げて、花梨は思い切り笑顔を浮かべた。
「近いうちに、ちゃんと『質問』を用意してくるから、ね」
 一瞬の間をおいて、先ほどの話の続きだと気付いたのか、彼が表情を崩した。わかった、とうなずきながら、その顔に苦笑をのぞかせる。上機嫌で彼に手を振って、それから花梨は、ドアの外へと軽い足取りで踏み出した。

Fin.