近くて遠い、夜空ノムコウ

「龍神さまってば、用意良過ぎる……」
 呆然と呟いた花梨の耳に、遠くからなんとものんきなカラスの鳴き声が響いた。
 窓の外には茜雲。そろそろ秋の陽も暮れようという夕方のことだった。

 事の起こりは数時間前にさかのぼる。
 龍神の神子としての戦いを終えた花梨は、京からもとの世界へと戻ってきた。
 まぶしい光に目を閉じ……ようやくまぶたを持ち上げてみたら、そこはいつもの帰り道。いつもの制服を着て、見覚えのある歩道に立っていた。
 一瞬、なにが起きたのかわからずに呆然としてしまったが、何度か目をまたたいて、はっと我に返った花梨はあわてて周りを見回した。一緒にここに来たはずの、『彼』の姿を求めて。
 視線の先に頼忠を見つけたときは、どれほどほっとしたことか。
 唐突に引き戻された日常の中で、京で過ごした時間は急速に現実味を失っていくようだった。出逢った人々のことも、おそろしい怨霊との戦いも、泣いたり笑ったりしたことのすべてが嘘だったのかと思わされてしまいそうだった。
 けれど、頼忠の姿を見たら( ―― あれは夢なんかじゃなかったんだ)、目の前がぱっと明るくなった。
 すべては本当にあったこと。心の底から大切だと、一緒にいたいと思ったその人は、ちゃんと目の前に立っている。
 花梨がいつの間にか制服姿に戻っていたのと同じように、彼もまた、この世界の風景に溶けこむものへと装いを変えていた。一目見たときこそ、つい先ほどまで見ていた姿とのギャップに面食らってしまったが( ―― でも、似合ってる)、こんなのもありかな、とすぐに気を取り直した。
 駆け寄った花梨に、少しだけ目元をゆるませて「神子殿」と呼ぶ声を聞いた途端、花梨もなんだか安心してしまって、思わず彼に抱きついてしまったものだった。普通なら人通りの多い時間帯のはずなのに、誰ひとり通りかからなかったのは、幸運だったのか、それともはたまた龍神さまの思し召しか。とにもかくにも、無事にふたりで帰ってこられた幸せを、ゆっくりと噛み締める時間が持てたのだった。
 しかし、いつまでも幸福感にばかり浸っているわけにはいかない。我に返った花梨は、されこれからどうしようかと今度は頭を悩ませることになった。
 花梨のほうはこれから自宅に帰るとして、頼忠はいったいどうすれば良いのだろう。今の彼は、本当に身ひとつ、行く宛てがあるわけもない。
(でも、わたしの家に連れてくわけにもいかない……よね)
 うーん、と考え込みながら頼忠の腕の中で首をひねったところで、ふと花梨の耳にかさりという音が聞こえた。音のしたあたりを見ると、頼忠のシャツのポケットから、なにやら紙片がのぞいている。
「これ、なんだろう」
 花梨の声でその紙片に目を留めた頼忠が、注意深くそれを取り出した。受け取って広げてみると、紙の上にはここからほど近いアパートの名前と、部屋番号とが書かれていた。
(通学路のそばにある、あのアパートだったかな)と記憶をたどっていると、今度は頼忠が、「神子殿、これは」と怪訝そうな声を上げた。差し出された頼忠の手のひらには、鈍い銀色の、いかにも家の鍵というようなものが乗っていた。
 手の中の紙片と目の前の鍵とを見比べて、再び考え込んでしまった花梨だったが、いつまでも路上でうなっていても仕方がない。
 今のところ、あてになりそうなものは、この紙と鍵だけだ。
(鍵は、これだけじゃなんの鍵なのかわからないし……)
 となれば、できることはひとつだけ。謎の紙を頼忠に示しながら、「とりあえず、ここに行ってみましょう」と花梨は歩き出したのだった。

 紙に記されていた部屋の前まで来て、さて、と花梨は問題の鍵を取り出した。道すがら頼忠とも話していたのだが、わざわざ紙と一緒に用意されていたものなのだから、この部屋の鍵、と考えるのが一番自然だろう。
 それでも、おっかなびっくり、そろりそろりと鍵穴に差し込んでみると、引っかかることもなくすんなりと鍵は入り、かちゃりと軽い音を立てて回った。
 花梨が毎朝、通りすがりに見ていた限りでは、いつもこの部屋の窓はカーテンが引かれていたから、ここは空き部屋なのだろうとばかり思っていた。しかし気づいてみれば、いまやドアの横には『源』と書かれたプレートが入っている。
 それに勇気づけられて、おそるおそるながらドアを開けてみると、玄関には靴が置かれていた。誰かいるのだろうかと一瞬ぎょっとしてしまったが、入り口から見渡せる室内に、人影はない。さらに、しばらくじっと様子をうかがってみても、物音ひとつ聞こえてはこなかった。
 いつまでもこうしていたって仕方ない。
「ちょっと様子見てきますね」と頼忠に声を掛けて、花梨はドアの中に踏み込んだ。後ろからはすぐさま「おひとりでは危のうございます」と声が返ってきたが、「大丈夫、危ないことなんてないですよ」と花梨は笑い返した。
「それに、頼忠さん、まだこっちには慣れてないんだし。ここで待っててください。ね?」
 手をきゅっと握りしめてそう告げると、不承不承という風情ながら、頼忠はそれ以上、花梨を引き止めたりはしなかった。
 部屋の中は、適度に散らかっていた。普通に誰かが住んでいて、つい先ほどまでここにいたかのようだ。
(だけど誰もいないし、それに部屋の鍵だって……)
 握りしめた鍵に目を落としたが、一歩間違えばこれは不法侵入というものではないだろうか。この鍵と、アパートの名前を記したメモがあったから、なんとなくここまで来てしまったが、本当に良かったのだろうかと不安になってしまう。
 溜め息をついて周りを見回せば、新聞や雑誌が目に入る。キッチンには食器類と調理器具、冷蔵庫を開けてみると、食料品もそこそこ入っている。居間だけではなく他の部屋ものぞいてみたが、歯ブラシやコップの置かれた洗面所といい、洋服の掛かった寝室といい、まるっきり誰かが住んでいるように見える。
 やはり間違えて誰かの部屋に上がりこんでしまったのではないかと思ったが、(それじゃあ、ドアのプレートはどうして)。
 うーん、と首を傾げながら居間に戻ってきた花梨は、今度はテーブルに置かれた小さな冊子のようなものに気づいた。
 冊子の上には、小さなメモが乗っている。そこに書かれたものは、近づくとすぐに読み取れた。ごくシンプルに、四桁の数字が走り書きされている。
(なんだろう)
 またまた首を傾げながら、今度はその下にあった冊子のほうに目を移した。『京都銀行』と書かれたそれは、どう見てもいわゆる銀行通帳というものだ。半透明のケースから取り出してみれば、ご丁寧に表紙には頼忠の名前が印刷されている。
(これって、もしかしなくても……)
 予想を胸に、ぱらぱらとページを繰っていくと、途中にキャッシュカードがはさまれていた。真新しい通帳にはただ一行、口座開設の記帳だけがされている。そこに書かれている金額を指折り数え、花梨はまさしく目をむいてしまった。
(いち、じゅう、ひゃく、せん、……ひゃ、ひゃくまんえん!?)
 ごくごく普通の高校生である花梨には、到底実感の湧かない金額だ。
 そこでふと、通帳の上にあったメモのことを思い出した。銀行で、四桁の数字、といえば……(あれって、カードの暗証番号?)。
 そこまで気づいたところで、花梨はしみじみと、「用意が良過ぎる」と声を上げてしまったのだった。

 花梨の感嘆したような声が聞こえたのか、玄関から頼忠が「神子殿?」と呼びかけてきた。この家に上がりこんでからびっくりすること続きで、すっかり頼忠を待たせているのを忘れてしまっていたことに気づいて、花梨は「あ、はい」と答えるとあわてて玄関に戻った。
「とりあえず、入って大丈夫そうです」と告げると、頼忠が靴を脱いで廊下に上がってくる。目だけで周りを見回す頼忠の表情は、まさに一分の隙もないといった様子だ。
 頼忠の袖を引いて居間に入った花梨は、ソファに腰を下ろすと隣に頼忠をうながした。そして、まだ警戒を解ききれずにいる様子の彼に、「大丈夫」と笑いかけた。
 なにがどう大丈夫なのかは、実のところ花梨自身にも良くわかっていなかったのだが、とにかく笑顔を見せたことで、頼忠の雰囲気が多少はやわらいだ。
「あのね、ここに住んでいいみたいです」
 どう説明しようかと悩んだ挙げ句、結局、結論だけをすっぱり言ってみたところ、案の定「それはまたどのような」と怪訝そうな声が返ってきた。
「勘、なんですけど……たぶんこれって、龍神さまがしてくれたんだと思うんです」
 かすかに目をみはって不思議そうな顔を見せた頼忠に、花梨は少しばかり照れ笑いをして続けた。
「わたしね、あのとき……神泉苑で百鬼夜行と戦ったあと、龍神さまとちょっとだけお話ししたんです。そのときに、龍神さまがわたしのお願いをかなえてくれるって言ったから、それで、あの、わたし、頼忠さんのそばにいたいって……だから、きっと、それで……」
 しゃべっているうちにどんどん顔が熱くなってきてしまって、花梨は両頬を手のひらで押さえた。
「あの、それに、きっとこんなことできるのって、龍神さまくらいしかいないと思うし……」
 口にした言葉はもっともなことだったが、その前に言ったことからすればいかにも付け足しのように思えてしまって、花梨は口ごもりながらうつむいた。
 確かに、このような掟破りのことを起こすのは龍神くらいなものだろうが、それが現実になったのは、なにより花梨が願ったからだ。
(わたし、あのとき、他のこと考えられなかった)
 ひとつめの願いで戦いに終止符を打ち、ふたつめの願いで京の未来を祈り、そこで最後にどうしてもかなえて欲しいこと、と考えたら、自然に頼忠の面影が浮かんでいたのだ。この先もずっとそばにいたくて、離れてしまうことになんて耐えられなくて。
「神子殿……」
 どことなく感嘆したような声がしたかと思うと、まだ両頬を押さえたままでいる花梨の手に、ひと回りもふた回りも大きな頼忠の手が重ねられた。びっくりして顔を上げたところで、彼の手に力がこもる。頭を動かせないように支えられたまま、ゆっくりと頼忠の顔が近づいてきた。
「あああああ、あの……」
 なにを言いたいというわけでも、また言えるというわけでもなかったが、真摯な頼忠の目がいつになく近くにあって、花梨は口をぱくぱくとさせてしまった。
 鼻先が触れるほどの距離で、頼忠に瞳の中をのぞきこまれる。反射的に目を閉じてしまった花梨は、そのまま数秒間、ぎゅっと身を硬くしていた。
 やがて、それ以上なにも起こらないことに(あれれ?)とやや拍子抜けしながら目を開けると、いつの間にか身を引いた頼忠が、小さく笑みをこぼして手を離した。なにもなかったことにほっと胸をなでおろしつつ、それを少しばかり残念だとも思ってしまっている自分に気づいて、花梨はまたもや顔に血が上るのを感じた。
(べべべ別に、そういうの期待してたわけじゃないもん)と心の中で言い訳してみるが、一方で、先ほど目を閉じた瞬間、もうどうにでもなれと覚悟を決めていたような気もする。
 まだどきどきと高鳴っている心臓をなだめて深呼吸を繰り返していると、いつの間にかすっかりいつものまじめな顔に戻った頼忠が、「神子殿、よろしければ室内をご案内いただけませんでしょうか」と尋ねてきた。
「は、はい、そうですよね」
 こくこくとうなずき、それから足に力を込めてえいと立ち上がった。そして、楽しげな気配をにじませた頼忠の視線を避けるように、「どこから説明したらいいかなあ」などと呟きながら、部屋の中をぐるりと見回したのだった。

 キッチンにバスルーム、ベッドルームと一通り説明して回り、ようやくふたりは居間に戻ってきた。ソファに腰を落ち着けて、目の前のテーブルに置かれた銀行通帳のことを説明したところで、花梨はその向こうに携帯電話が置いてあるのに気づいた。一見したところ、花梨が持っているのと同じ機種の色違いらしい。
(あれ? こんなのあったかな?)
 さっきここにいたときは気づかなかったけど……と不思議に思ったが、通帳のことで動転していただけかもしれないと気を取り直した。
 それにしても、ここに置かれているということは、この携帯電話もまた、頼忠が使って良いということなのだろうか。家の中にある、ほかのものと同じように。
(そういえばここ、電話機ってないもんね)
 連絡手段がなにひとつないのでは心許ないが、特に連絡をしてくる相手もいない頼忠であれば、携帯電話ひとつで充分だろう。それに、彼のほうでなにか困ったことが起きたときでも、携帯電話があればその場から花梨に連絡してもらうことができる。メールだなんだといった機能はさておき、まずは電話の受け方とかけ方だけは説明しておかねばならないだろう。
 と、そこで、はたと花梨は思い出した。
(それよりまず、ケータイとか電話とかってなんなのか、っていう話だよね……)
 とりあえず、簡単でもいいから仕組みについて説明しようかとも思ったが、よくよく考えてみれば花梨とて、なにひとつわからない人にちゃんと説明できるほど詳しいわけではない。結局のところ、「これを使うと、離れたところにいる人と話ができるんです」と理屈をすっとばした説明になってしまったが、頼忠は静かにうなずいただけだった。
 この世界に来てまだほんの数時間ながら、頼忠はどうやらこの事態にも慣れ始めたらしい。衣食住しっかりと用意されているとあっては、これ以上どんなことが起きても驚くまいと腹をくくってしまったようだ。
 ぴくりとも表情を動かさない頼忠になかば感心しつつ、花梨は携帯電話を頼忠に差し出した。
「ええと、たぶん、使っちゃえばすぐわかると思います」
 習うより慣れよ、の言葉どおり、花梨はひとつずつ場所を示しては頼忠にボタンを押してもらった。入力した番号は、花梨の携帯電話のものだ。
「……それで、最後にここを押して」
 と、すぐさま花梨の携帯電話が鳴り始めた。
「頼忠さん、それ、こうやって」耳元に携帯電話を持ち上げて、「持ってみてください」とうながす。花梨の指示どおりに頼忠が携帯電話を耳にあてがうと、花梨は二、三歩離れてから電話に出た。
「もしもし、聞こえますか?」
 声を抑えて送話口にしゃべりかけると、さすがの頼忠も目をみはった。花梨の声が、直接ではなく耳元の箱から聞こえているというのがわかったらしい。
「これはどのような」と呟く声を聞いて、花梨は「とにかくこういうものなんだって、思っちゃってください」と笑ってみせた。
「なにかあったら、今みたいにして連絡してくださいね。わたし、すぐに出ますから。あ、でも学校にいる間はちょっと厳しいかもしれませんけど」
 言いながら、花梨は近くにあった紙に自分の携帯電話の番号を書き記した。念には念を入れて、数字の下にそれぞれのボタンの位置も書き込む。電話帳に番号を登録してしまうことも考えたが、それを呼び出して……などとやると、話が余計にややこしくなりそうだと思い直した。シンプルに番号を押すだけのほうが、今の頼忠にはわかりやすいだろう。先ほど試しに電話してもらったおかげで頼忠の番号もわかったから、これはあとで自分の携帯電話に登録しておくことにする。
(さて)
 ひとしきり家の中も案内したし、頼忠としてもひとまず今夜ここで過ごすくらいのことはできるだろう。何時ごろになったかと時計を見上げて、「わ、もう六時過ぎてる」と花梨は焦った声を上げた。それを聞いていた頼忠が、なんのことかというように少し怪訝な表情を見せる。
(あ、時計だって見るの初めてだよね)
「ええとね、こっちでは、これで時間がわかるんです」
 そう言うと、花梨は京での時間の数え方を思い出しながら、時計の見方を説明した。
「……そうしますと、六時、と言いますのは、酉の三刻ほどになりますか」
「えと……うん、そうです。わたし、あしたは四時、だから……」
「申の刻ですね」
「はい、そのころに来ますね」
 にこにこと笑う花梨に、頼忠もふっと表情を緩めて「お待ちしております」と微笑んでくれた。
「それじゃあ、またあした」
 名残惜しい思いを抱えながら、花梨はこれからしばらく、毎日ここに来ることを約束して、頼忠の部屋を後にした。

 夜十時。あれから表向きは何事もなかったかのように帰宅し、その実、久しぶりの我が家にしみじみと安堵していた花梨は、今、これまた久しぶりの自分の部屋にいる。ベッドに腰掛けると、身体の下になじんだスプリングの感触がした。
(本当に帰ってきたんだ)
 感慨深い思いで、ゆっくりと今日のできごとを思い返す。
 端からは、花梨の一日は平凡極まりないものに見えただろうが、その間に別の世界に行って三か月も過ごして来ました、なんて、ずいぶんと不思議な気分だ。
(とりあえず、わたしがあっちに行ったのと同じ日に戻ってこられたのは良かったけど)
 この世界の流れの中で、ほんの数秒、あるいは本当の本当に一瞬。その間に普通では考えられないような体験をしたし、(それに……こ、恋人ができちゃった、なんて)。
 実際のところは、三か月もかけてじっくりと育んできた恋心だけれど、この世界では、頼忠は突然できた恋人ということになるわけだ。
(本当に一瞬だったら、きっと好きになんてなってなかっただろうな)
 ずっとそばにいたからこそ、想いを寄せるようになったのだ。
(最初に見たときだって、かっこいいとかより先に、こわいって思っちゃったし)
 今は、その涼やかな目元も、引き結ばれたくちびるも、額にかかる前髪、花梨の耳元でささやく声まで、すべて好きで好きで仕方がない。そのことを思うと、(これからも一緒にいられるようになって、本当に良かった)と幸せな気持ちが込み上げてくる。
 まぶたの裏に、少し笑った彼の顔を思い浮かべ( ―― 今、どうしてるかな)、花梨はごそごそと自分の携帯電話を引き寄せた。小さな画面に頼忠の番号を表示させてみる。
 いつ頼忠から電話がかかってきても良いようにと、家に帰ってきてすぐ、電話帳に登録した。彼の名前ならきっと、太い筆で力強く書いた文字が似合うのだろうと思うけれど、それが今はデジタル表示でなんともちんまりと浮かび上がっている。今はまだ、なんだか似合わないなと思ってしまうが、いつか頼忠が携帯電話でしゃべっている姿にも違和感などなくなるのだろうか。
(頼忠さん、少しはケータイさわってみたかな)
 ひとりきりで、わからないことや困ったことは起きていないだろうか。
 自分よりずっと年上でしっかりして落ち着いている人のことをあれこれと心配するのもなんだが、なにせこちらの世界に来て最初の日だ。花梨が京に行った日は、夜になるとひとりきりで心細くて涙ぐんだりしてしまった。頼忠はさすがに泣いたりはしないだろうけれど、(……寂しいとか、思ってないかな)簡単に落ち着いて眠れるものでもないだろうと思う。
(……かけてみようかな)
 液晶画面に頼忠の番号を表示させてみたり、消してみたり。そんなことを繰り返す花梨の頭に、ふとそんな考えが浮かんだ。
 だが、そう思ってはみたものの、通話ボタンを押す度胸がなかなか決まらない。
(さっきまで一緒にいたのに、しつこいかな)
(いろんなことあったから、疲れてるに決まってるよね)
(あ、こんな時間だから、もう寝ちゃってるかもしれないし)
 時計の針は、もう十一時近い。京ならば、もう夜中と言って良い時間だ。事実、あちらの生活に慣れていた花梨も、先ほどからまぶたが重くなり始めている。二十数年も京で暮らしてきた頼忠ならば、なおのことだろう。
(……今日は、もう寝ちゃおう)
 結局、そう答えを出して、花梨は部屋の灯かりを消すと、勢い良くベッドにもぐりこんだ。
「おやすみなさい」
 小さな声でそっと呼びかけるのは、ここにいない彼に向けてだ。
 これは、京にいたころからの習慣。いつの間にか身についてしまっていた、花梨のひそやかな習慣だった。

 終業のベルと同時に、花梨はあわただしく帰り支度を始めた。いつもはのんびりしている花梨のそんな行動に、クラスメートたちが目を丸くする。
「花梨、今日はなにかあるの?」
「あ、うん。だから今日は、いつものとこ行けないや。ごめん」
 答える間も手は休めず、教科書やらノートやらを鞄に押し込んだ花梨は、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「それじゃあ、またあしたね!」
 手を振りながら小走りに教室を出ていく花梨の後ろ姿を、いくつもの不思議そうな目が見送っていた。

 急ぎ足で歩いていた花梨は、ふと歩道の街路樹に目を留めた。
(ここだ)
 花梨が京に呼ばれ、そして昨日帰ってきた場所は、確かこのあたりだったはずだ。
 ずいぶんと長いこと京で過ごしてきたというのに、今日一日は、まるでそんなことなどなかったかのように普通に過ぎた。普通に起きて、朝ご飯を食べて、学校に行って。数学だの物理だのといったものがすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのには参ったが、幸い授業であてられることもなかったから、周りにはわからなかっただろう。
 すべてがなかったことになっているというのは、帰ってきて一日経った今でもやはり不思議な心地がする。もしひとりで帰ってきたのだったら、自分でもすべて夢だったと思ってしまったかもしれない。
 今朝、目を覚ましたとき、本当になにもかもが( ―― 京に行ったことも、怨霊と戦ったことも、それから、頼忠さんと出逢ったことも)夢だったのではないかと、ぼんやりした頭で考えてしまったくらいだ。
 けれど、携帯電話のメモリにはちゃんと頼忠の名前があった。だから、夢なんかじゃないと信じられる。
まっすぐ家に帰る代わりに、友達とファーストフードでおしゃべりする代わりに、真っ先に行きたい場所がある。二十四時間前までは気にも留めなかった、アパートの一室。
(そこに、頼忠さんがいてくれる)
 大好きな人が、いてくれる。
 ここから頼忠の部屋までは、もうそれほど遠くない。
(早く会いに行こう)
 ぎゅっと鞄を持ち直した花梨は、軽やかな足取りで午後の街を走り出した。

 時刻は三時半過ぎ。息を整えてインターホンを押すと、どうやらその音が来訪者を告げるものだと察したようで、扉から頼忠が顔を出した。「お早いですね」と笑みをにじませた顔を見て、「急いで走ってきちゃいました」と花梨も笑う。
 頼忠についてリビングに入っていくと、テーブルの上に雑誌が広げられていた。今しがた頼忠が見ていたものだろうか。
「雑誌……」
 読みかけのそれを目で示しながら、「おもしろいですか?」と尋ねると、「はい」とすぐさま答えが返ってきた。見たところ、写真の多い雑誌のようだ。
「どんな雑誌ですか? 見てもいい?」
「もちろんです」
 鞄を足元に置きながらソファに座り込んで、花梨は雑誌のページをぱらぱらとめくり始めた。どうやら、男性向けのファッション誌らしい。新聞や普通の本に比べれば格段に文字の割合が少ない分、頼忠にはとっつきやすいだろう。花梨にしても、日頃目にする類いのものではないから、興味が湧いてつい熱心に見てしまう。
 花梨がじっくりとページを繰っていくのを、隣に座った頼忠も一緒に眺めていた。
「こういうの、頼忠さんに似合いそう」
 一枚の写真を指差して花梨が言うと、「そうでしょうか」と頼忠が生真面目に答えてきた。
「こちらの衣服については、良くわかりませぬゆえ」
「うーん、でも頼忠さん、背が高いから、なんでも似合っちゃうかも」
 花梨にしてみればごくごく素直な感想だったのだが、頼忠は意外なことを言われたという顔をしている。
(今まで、服装を気にしたことなんて、なさそうだもんね)
 彼の容姿を考えると、花梨などは思わず「もったいないなあ」と呟いてしまうのだが。
 驚いた顔を見せた頼忠は、まばたきひとつすると、かすかな笑顔に戻った。
「神子殿は、いつもそのようなものをお召しでいらっしゃるのですか」
「ううん、これは制服。学校に行くときはこれじゃなきゃいけないの」
「では、それ以外のときは」
 どうしたことか、なかなかに頼忠は興味深そうな様子だ。
「どんなの……って言っても。あ、今度、お休みの日になればわかりますよ」
 なにげなく口にした言葉だったが、それを聞いた頼忠はにわかに笑みを深くした。
「楽しみにしております」
「え? そ、そんな、楽しみにするようなものじゃないですってば」
 予想もしなかった返答に、思わず口ごもりながら頬を赤らめてしまった花梨だった。

 夜になって、花梨は昨日と同じように、ベッドに座り込んでいた。手の中には、これまた昨日と同じように携帯電話がある。
(今日は、電話してみようかな)
 ちらりと見上げた時計は、まだ昨日よりだいぶ早い時間を示している。
(それでも頼忠さんにとっては遅い時間かもしれない)
(でも、今ならまだ起きてるかもしれない)
 かけてみようか、やめておこうか。しばらく堂々めぐりを続けた挙げ句、(ちゃんと電話に出られるか確認するだけなんだから)と、なんとも無理やりな理由で、花梨は自分を納得させた。
 よし、とひとつ気合いを入れて、通話ボタンを押す。ただ電話をかけるだけにしては妙に緊張しながら、呼び出し音を聞いた。
 コールが三回目で途切れて、束の間の空白に変わる。
「あ、あの、頼忠さん」
 おそるおそる呼んでみると、『神子殿?』とまごうことなき頼忠の声が返ってきた。
「あの、あのね」と言ったきり、言葉が続かなくて困っていると、逆に向こうから『どうなさいましたか?』と心配そうな気配をありありと漂わせた声が呼びかけてきた。
「いえ、その、なにがあったっていうことでもないんですけど……」
 やはり、こんな時間に迷惑だっただろうか。花梨のことを、気遣い過ぎるくらいに気遣ってくれる頼忠だから、突然電話などしたら、なにかあったのではないかと心配させてしまうことくらい、予想していなければいけなかったのに。
(なんでそこに気がつかなかったかなあ……)
 少々自己嫌悪気味になったところへ、『そうでしたか』と頼忠の声が聞こえた。明らかにほっとした声を聞くと、不要な心配をかけたことがなおさら申し訳なくなってくる。
「あの、特に用もないのに電話しちゃって、ごめんなさい」
 それじゃあ、と電話を切ろうとしたが、その前に『いいえ』と頼忠の声がすべりこんできた。やわらかな声音で『神子殿のお声を聞くことができて、嬉しく思っております』と告げてくるのを聞いたら、現金なもので思わず頬がゆるんでしまった。
「わたしも、頼忠さんの声が聞けて良かったです」
 するすると素直に出た言葉で( ―― そう、本当はそんなふうに簡単なことなんだ)、胸のつかえが取れてゆく。声を聞きたい、それだけでも充分過ぎるほどの理由になるということに、どうして気づかなかったのだろう。
 今すぐに顔を見ることはできないくらいに遠くて、けれどこの瞬間、とても近く思える彼の声。携帯電話を手にした頼忠がやさしく笑っている顔を思い浮かべれば、花梨の笑みも自然と深くなる。
「あしたも、会いに行きますね」
 花梨の言葉に答えてくれるのは、いつも通りに深くやわらかな声だ。
(声が聞きたくなったら、いつだって構わない、電話をしよう)
 わざわざ携帯電話を用意してくれた龍神さまに心から感謝しながら、花梨は胸のうちで呟いた。窓の外、星のきらめく夜空を見上げながら。

Fin.