年の初めの狂騒曲

 新しい年が明けた。折しもきれいに晴れて、気持ちの良い元旦だ。
ぬくぬくとこたつに入った花梨は、高倉家に届いた年賀状を宛名ごとに仕分けしていた。おおかたは父親宛てのものだが、その中に時折母親宛てのもの、そして友人たちから花梨に届いたものも混じっている。
(えーと、マキには出してあるし、あいちゃんにも書いたし……)
 無事に分け終わって自分宛てのものを確認してみると、どうやら出し忘れはなかったようだ。ほっと一息つきながら、改めてみんなの年賀状を見返してみる。やはり、今年の干支である羊のイラストが入ったものが多いが、最近はずいぶんと写真入りのものも増えた。他には、イラストを手描きしてあったり、羊とはまったく関係のない絵柄のものもあったりする。たがだかハガキ一枚でも、送り主の人となりがうかがえるようで、見ていて飽きない。
 ちなみに花梨はというと、お店でかわいらしいデザインのハガキを買ってきて、一言ずつメッセージを添えてみんなに送った。文面はもちろん相手によって違っていたけれど、締めくくりはだいたい、『今年もどうぞよろしく!』となっている。
親戚など目上の人に宛てたものは口調が丁寧になっているなど多少の差はあるが、込められた意味合いはどれも、去年に引き続いて今年も、というものだ。
 毎年繰り返されていく、おなじみのあいさつ。
 だが、数十枚出した年賀状の中でたった一枚、特別なものがあった。
『これからもずっと、よろしくお願いします』
 花梨がその言葉を届けたのは、ほんの数か月前に出逢った彼に宛ててだ。
(もう読んでくれたかな)
 ふと考えて、口元をゆるませる。
 日頃から顔を合わせたり、電話で話したりしている彼に、改まって年賀状を書くのは、正直なところ少し気恥ずかしかった。けれど、この世界で初めての新年を迎える彼に、年賀状というものを送ってみたくて、そして受け取ってもらいたくて、花梨は時間をかけながら一枚の年賀状を書いたのだった。
 ハガキに綴った文章は、そう長くはない。でも、改まって伝える言葉なら、それで充分だ。あとはいつだって、言いたいことならすぐに話してきたから。
(頼忠さん、どうしてるかなあ)
 彼のことを考えていたら、なんだか声が聞きたくなった。こたつから抜け出して、充電器に置いてあった携帯電話を手に取る。リダイヤル画面を開くと、一番上にあるのは彼の名前だ。発信時刻は、今日の午前零時過ぎ。それを見て、そういえば数時間前に電話をしたばかりだったと思い出した。
 しばらく声を聞いていないような気がしてしまったのは、自分が忘れっぽいだけなのか、それとも彼と話すのがそれだけ好きだということか。液晶画面を見つめてふと考え込んだ花梨は、小さく苦笑した。

 昨夜のこと。こたつで家族揃って大晦日恒例のテレビ番組を見ていた花梨は、日付の変わる少し前に自分の部屋へ戻った。上着を着込んで窓を開けると、遠くから除夜の鐘が響いてくる。
 目を閉じて窓枠にもたれ、花梨はこの一年にあったことをひとつずつ思い出してみた。
 春には、中学を卒業して高校生になった。勉強はまた少し大変になったけれど、新しい友達がたくさんできた。毎日しっかり授業を受けて、友達とたくさんおしゃべりをして、新しい生活を目いっぱい楽しんで。
 そんな日常に突然の事件が起きたのは、まだ夏の余韻も残る、秋の初めのことだった。
 京と呼ばれる世界を訪れ、いろいろな人に出逢って、いろいろなことを経験して。怨霊と戦ったり、はたまた穢れにあたったりなどという、それまでの日常にはなかったことがたくさん起きた。
そのたびに泣いたり笑ったりしたことも、今では良い想い出だ。
(みんな、元気にしてるかな)
 あの世界で出逢ったひとりひとりを思い出すと、懐かしい気持ちになる。除夜の鐘の響きが、心なしかあたたかく聞こえてくる。
 あれから年が明けて、八葉の役目を終えたみんなはどうしているだろうか。きっと、それぞれに忙しくしていることだろう。
 ―― 想い出に浸っている間に、ずいぶんと時間が経ってしまったようだった。厚着をしていても、身体が少し冷えてきた。窓を閉めてベッドの上に座り込み、ひざ掛け代わりに毛布を引き寄せる。
 さて、と手にした携帯電話で、日付がしっかり一月一日に変わっていることを確認して、花梨はいつもの番号を呼び出した。
 電話が繋がるまで数秒。それからいつもどおり、コールが二回目を数え終わる辺りで、呼び出し音が途切れる。
『花梨?』
 すぐに名前を呼んでくれるのは、やわらかな彼の声だ。
「もしもし、頼忠さん」
 弾んだ声で答えた花梨は、「あけましておめでとうございます」と言葉を継いだ。いつもはくだけた口調で話しかける花梨だが、このときばかりはかしこまった言葉になる。
 同じように電話の向こうから、頼忠も言葉を返してきた。それからまた、ふたりして「今年もよろしくお願いします」とお決まりのあいさつを交わしたところで、なんとなく笑ってしまった。
 京にいた頃はずっと、こんな言葉づかいで会話していたというのに、こちらにきて気安い話し方を心がけているうちに、すっかりそちらのほうがなじんでしまった。だから、今更ながらに固い口調で話すと、なんだか変な感じがしてしまうのだ。
 そんな話から始まって、少しの間、ふたりで取り留めのないおしゃべりをした。大晦日は一日なにをしていたかとか、年越しそばはどうしたかとか、おせち料理の準備はどうなったかとか。
 話題も尽きたかという頃には、一時間近くが過ぎていた。そろそろ電話を切ろうかという雰囲気になってきたところで、花梨は「あのね」と新しい話を切り出した。
「頼忠さん、あさって一緒に初詣に行こう」
 花梨の提案に、頼忠が否と答えるわけもない。ふたりの新年最初のデートは、こうして決まったのだった。

 高倉家の初詣は、毎年決まって正月の二日。家族揃って、電車で数駅のところにある神社に出かけることになっている。今年ももちろん、そこで初詣を済ませてきたのだが、さらに翌日、花梨はまたまた初詣に出かけた。
 今日は家族とではなく、頼忠とふたりだ。せっかくだからということで、少し遠出をして、テレビでも名前の出るような有名な神社に行ってみることにした。
 さすがに毎年話題になるだけのことはある。参拝客は予想以上の数で、相当人波に揉まれはしたが、それはそれで正月らしくにぎやかで良いものだ。
 道の脇にはぎっしりと屋台が並び、どこもそこそこ客が集まっている。きれいな振り袖を着た人とも、ずいぶんすれ違った。これだけの混雑の中で慣れない着物を着ているのは疲れそうなものだが、やはり華やかで素敵だ。来年は着てみたいな、などと考えたりしながら、どうにかお参りを済ませ、今度はまたまた混んでいる授与所に向かう。ふたりそれぞれに選んだお守りを買ったところで、「おみくじ」と書かれた筒が目に入った。
「引いていこうか」
 花梨が筒に手を伸ばして言うと、頼忠もうなずく。順々に筒を振り、出た番号の籤をもらった。
 差し出された紙を一目見て、花梨は「わ」と目を丸くした。ひときわ目立つように書かれた文字は、『大吉』。下には短いコメントと、『健康』『金運』『学業』などの項目が並んでいたが、どれも良いことばかり書いてある。嬉しくなって何度も読み返していると、上から花梨の手元をのぞきこんだ頼忠も、『大吉』の文字に目元をゆるませた。
「頼忠さんは、おみくじ、どうだった?」
 自分の籤から目を上げて尋ねると、頼忠が手にしていた紙を花梨に向けてみせた。こちらは『中吉』、まずまずの結果だ。
 今年一年が素敵なものになると、籤にも後押ししてもらったようで、なんだか嬉しい。良かったねと笑いあって、花梨はもう一度、頼忠の籤に視線を戻した。
 一項目ずつ順に文面をたどっていき……途中でふと、花梨は眉を寄せた。
 もともと、籤に書かれている文章というのはどれも抽象的で、意味深長なものが多い。とは言え、これはまたずいぶんと大きく出たものだ。
『人生の転機有』
 じっくり三度ほど読み返し、花梨は「これって……」と呟きながら頼忠を見上げた。
 いったい、彼の人生のなにが、どう転ぶというのだろうか。そもそも、人生最大の転機なら、去年、この世界に来たことではないかと思うのだが。
「まだなにかあるのかなあ」
 いささかの不安も交えつつ、花梨は小首を傾げたのだが、当の頼忠は案外平然としていた。涼しい顔をして、「きっと良いことだろう」などと言っている。
 さらりと言われると、転機などという堅苦しい言葉も、楽しいことのように思えてくる。
「そうかな、そうだといいね」
 笑顔になってうなずいた花梨だったが、そのあとに頼忠が続けた言葉を聞いて、今度は人込みの中、顔を押さえてうつむく破目に陥った。
「花梨がいるから、なにがあろうと良いことだと思える」
 彼は果たして、衆人環視の中でこんなことを言ってしまえる人だったのだろうか。やはり源頼忠という人はまだまだ計り知れないと、花梨は小さく溜め息をもらした。

 人波に揉まれながらも無事に神社を後にしたふたりは、どこか一息つける場所はないかと、開いている店を探して歩いていた。とはいうものの、めったに来ない街ではどんな店があるのかもわからないし、正月三日ではまだ閉まっているところも多い。たまに営業中の店を見つけても、おおよそ参拝客の考えることはみな同じというわけで、どこも盛況、満員御礼だ。
 目の前で信号が赤に変わったのをきっかけに、ふたりは交差点の角で足を止めた。四辻に面した店は、いったいなんの店なのだろうか。今日はまだ営業していないらしく、ぴしりと下ろされたシャッターには『謹賀新年』と大きく書かれた張り紙がしてある。
「ちょっと疲れちゃったね」
 花梨が伸びをしながら言うと、頼忠も「やはりどこも混んでいるものだな」と苦笑した。
「どうする? このまま頼忠さんのうちまで帰っちゃおうか」
「ああ、そのほうがいいかもしれないな」
 そんなことを話しながら、ふたりが信号の変わるのを待っていたときのことだ。
 突然、鼓膜に高い声が飛び込んできた。
「ちょっとすみません!」
 なかば走るように早い歩調でやってきて、ふたりの前で立ち止まったのは、ひとりの女性だった。パーツの大きい華やかな顔立ちに、くっきりと化粧をしている。どちらかといえば小柄だが、そう感じさせないのは全身から発散するエネルギーのせいだろうか。溌剌とした、という形容が実に似合う人だった。
「すみません、今、お時間よろしいですか?」
「え? あ、あの……」
 なにがなんだかわからずに目を白黒させる花梨と、事態が呑み込めないゆえか表情を険しくしている頼忠とを前に、その女性はまったく怖じ気づく様子もなく話を続けた。
「ああ、私、こういう者なんですけど」
 颯爽と鞄から紙片を取り出し、女性はパッと華やかな笑顔を作る。
「その辺りで少しお話でも」
 差し出された紙片 ―― ちょうど手のひらに乗るサイズのそれは、いわゆる名刺というものだが ―― をのぞきこんで、花梨と頼忠は顔を見合わせた。
 表面に少し凹凸のある、薄い青みを帯びた紙には、社名や名前が刷り込まれていた。中央にある『浅野礼子』というのが、この女性の名前らしい。その上には、少々凝った形のロゴと、『プレスト・モデル・エージェンシー』という文字が書かれていた。

「あら、やっぱり初詣の帰りだったんだ」
「あ、はい」
「私もね、ちょうどこれから行こうと思ってたところだったのよ」
「はあ」
「そうしたらあなたたちの姿が目に入ったものだから、つい声を掛けちゃったわ」
「ええと……」
 浅野、と名乗った女性は、実に良くしゃべる人のようだった。次から次へと、花梨が口をはさむ間もなく言葉が飛び出してくる。どうしたら良いのかと花梨がまごついていると、その様子に気づいた浅野が「ごめんなさい、ぺらぺらと」と言って少し声のトーンを落とした。
「それで、肝心の話なんだけれど」
 まじめな口調に切り替えて、浅野はふたりに声を掛けた事情を話し始めた。
 聞くところ、だいたいは花梨の予想のとおりだ。今はテーブルに置かれた名刺、これを見ればおおよそのことはわかる。
 スカウト、という言葉、もちろん聞いたことはあるけれど、まさか自分がそういう世界の人と話をする機会があるとは夢にも思わなかった。
(って言っても、頼忠さんのほうなんだけど)
 浅野が目をつけたのは、今花梨の隣に座っている彼のほうだ。これまで考えたこともなかったけれど、本当は、いつかはこんなことがあってもおかしくなかったのかもしれない。
(頼忠さん、素敵なんだもん)
 普段はあまり遠出もせず、人の多い場所に出かけることもないから、他人の目に留まる機会がなかっただけのことで、出るところに出れば目をつける人はいるということだ。
 すっかり黙り込んだままの頼忠を見上げると、事情を図りかねている表情で見返してきた。花梨にしてみれば、こういうこともあるか、というところだが、頼忠には状況がさっぱりわからないらしい。そもそもスカウトというのは……というところから、説明してわかってもらわなければならないだろう。
 浅野がひととおり話を終えるのを待って、花梨は口を開いた。
「あの、とにかく、考えさせてもらっていいですか? 連絡は、必ず、ちゃんとしますから」
 話す花梨を、浅野はじっと見つめている。
(やっぱりこういうのって、簡単には帰してくれないのかなあ……)
 困ったな、と内心呟いた花梨だったが、意外にあっさりと浅野はうなずいた。
「そうよね、簡単に決められることでもないでしょうし」
 さばさばとした口調に、花梨がほっと胸を撫で下ろしていると、コーヒーカップを空にして浅野が立ち上がった。
「それじゃあ、私も初詣に行くとしようかしら」
 きれいにマニキュアを塗った指先が、ひらりとオーダーシートをさらった。「あ」と花梨が声を上げたときには、浅野はもうレジに向かっていた。
「あの、コーヒー代……」
 あわてて立ち上がろうとする花梨を「いいのいいの」と笑顔で制し、浅野は手早く会計を済ませる。
「話を聞いてくれたお礼だから、私に払わせて。大丈夫、コーヒー一杯でどうのこうの言ったりなんかしないわよ」
 じゃあね、と手をひらひら振って歩き去る浅野は、ドアの手前で振り返ると、最後にこう言い置いていった。
「いい返事、待ってるわ」
 満面の笑みを残して、浅野が店を出ていく。ドアチャイムの音が、チリンチリンと呑気に響いていた。

 そろそろ新年の三が日も終わろうかという刻限、花梨はベッドに寝転んでいた。
(新年早々、大変なことになっちゃったな)
 今日のことを思い返すと、ついつい溜め息が出てきてしまう。
 あれから頼忠の部屋に戻って、浅野の話を噛み砕いて説明しなおした。いかにこちらの生活にもなじんできた頼忠と言えど、さすがにモデルだのスカウトだのという世界はわかっていなかったらしい。花梨の説明を聞き終えてようやく、なるほどという顔になったが、同時にずいぶん複雑な表情も見せた。
 とりあえずは用件が呑み込めたところで、頼忠が「考えてみる」と言って、一旦この話は打ち切りになったのだった。
 考えてみれば、頼忠もこちらに来てすでに三か月以上を過ごしている。生活自体にはもう充分に慣れたようだし、いつまでもじっとしているより、働いてみたりするほうが楽しいかもしれない。
(でも、そこで突然モデルっていうのは……)
 この世界に生まれ育った花梨にしてみたって、そうそう縁のある業界ではない。ましてや頼忠は、ほんの数か月前までは正真正銘、本物の武士として、日夜剣を振るっていた人だ。
(その頼忠さんが……)
 余りの立場の変わりように、考えているとめまいがしてきそうだ。
 それはまあ、カメラで撮ってみたくなる気持ちもわからないではない。
 目を引くのは、彼の背の高さや顔立ちといったものだけではない。彼の持つ雰囲気 ―― 常に生死の境目に立ってきた彼の、静かでありながら苛烈な空気が、見る者の目を捕らえずにはおかないのだ。
 フィルムに焼き付けられた彼は、いったいどのように見えるのだろう。一枚の絵の中にぴたりと切り取ったなら、どんな姿に見えるのだろう。そう思うと、モデルという仕事も存外似合いかもしれないと思えた。
 だが、なんにせよ、本人がそういう仕事をしたいと言うかどうか、それが第一だ。やってみようと言うなら花梨も心から応援するし、嫌だと言うならそれはそれで良いと思う。ただ、どちらにしても、これを機に頼忠は職に就くということを考え始めることだろう。
(どんなお仕事がいいんだろう)
 思いつく職業に、片っ端から頼忠を当てはめてみて、花梨は少しの間、笑ったりうなったりということを繰り返した。

 あの話を受けようと思う、と頼忠から答えを聞いたのは、浅野と会った二週間後だった。いろいろと考えてみたが、やってみようと思ったのだと言う。
「うん、頼忠さんがやりたいなら、そうするのがいいと思う」
 不安なことがないわけではないが、やる前から悩んでいても仕方がない。それに、度胸の据わっている頼忠のことだ。いざ始めてしまえば、案外あっさりとその境遇も受け入れてやっていけるだろう。
 花梨が笑顔でうなずくと、頼忠も笑った。彼には珍しく、安心したような表情を見せている。
「もしかして、私が反対するかもって思ってた?」
 首を傾げて尋ねると、苦笑いが返ってきた。
 この三か月で、驚くほどこちらの生活に慣れた頼忠だが、それでもやはりわからないことは残っている。日々の生活に必要な事柄から離れれば離れるほど、その傾向も強くなるから、モデルなんていう職業については、浅野に声を掛けられるまで、ちらりとも頭をかすめなかったことだろう。それだけに、やはり危ぶむ気持ちも大きかったらしい。
「大丈夫」
 花梨がもう一度、にこりと笑顔を見せると、不意に頼忠が手を伸ばしてきた。指先を絡めて、繋いで、やさしい目をする。
(きっと、大丈夫)
 なにが起こっても、ふたりで一緒にいれば、どうにかできる。手を繋いで「大丈夫」と口にするだけで、いつも決まってそんなふうに思うことができた。
 大変なことなら、これまでだってたくさんあった。
(でも、今、一緒にいるよ)
 だからいつだって、この手を離さなければ大丈夫。どんなことだって、平気。
「ね、頼忠さん。一緒にがんばろうね」
 四六時中くっついているわけでなくても、心はいつも傍にいる。仕事をするのは自分ではないけれど、がんばりたい気持ちは同じだ。
「わたしも、なにかできることがないか、考えてみるから」
 まだ高校一年生の花梨にとっては、働くというイメージ自体があいまいで、どんなものが必要なのか、どんなことをしておかなければいけないのか、とにかくわからないことばかりだ。きっと、これから頼忠は、そういったことを自分ひとりで調べて、解決しようとしていくのだろう。
(わたしも、いろんなこと調べて、考えてみよう)
 知っていれば、なにかのときには力になれるかもしれないから。考えていれば、もしかしたら相談にだって乗れるかもしれないから。
「ところで、浅野さんにはこれまでのこととか、説明するの?」
 仕事をしていく上で、避けては通れない問題だろう。本当に、彼女の勤めるエージェンシーに所属するとなれば、当然いろいろなことを聞かれるに決まっている。
 とりあえず今は、こうして住む場所があって、お金も用意されていたりするけれど( ―― 龍神さま、どこまでしてくれちゃったのかなあ)、戸籍や住民票はどうなっているのだろう。いつの間にかちゃっかり作られていれば、それはそれで都合がいいのだが、うっかり確認しに行って存在していなかったりしたら大変だ。そう思うと、迂闊に役所にも近づけない。口先だけならごまかせることでも、証明書の類いばかりはどうしようもないのだ。
 早くも深刻に考え込んでしまった花梨だったが、頼忠は存外けろりとしている。
「どのみち仕事の件は、すぐに承諾したと伝えるつもりはない。これから詳細を聞いて考えても良いだろう」
「……そっか、そうだよね」
 ゆっくり考えれば、なにか解決方法が見つかるかもしれない。あるいは、いっそのこと正直に全部話してみたほうが、良い結果になるかもしれない。まずはじっくり、浅野の人柄と出方を見極めてからだ。
 近いうちに連絡を取ってみる、という頼忠に花梨がうなずき返すと、「来週の土曜で構わないか?」と尋ねられた。
「え? わたしも一緒に行っていいの?」
 なにぶん仕事の話なのだし、直接関係のない自分が混じっていて良いのだろうか、という考えもあったのだが、頼忠は表情を崩してうなずいた。
「いてくれなければ困る」
 返ってきた答えを聞いて、花梨は目を丸くした。
 頼忠が、これだけはっきりと花梨を頼りにしてくれることは、めったにない。なんだかくすぐったい気持ちになって、花梨は照れ隠しに、繋いだままの手をきゅっと握った。頼忠も軽く笑みを浮かべたままで、同じように手を握り返してくる。
(がんばろう)
 こうしているだけで力が湧いてくるから、やれるだけやってみようと思う。
 なんといっても、籤も後押ししてくれている、ふたりの一年だ。本当の本当に良い年にできるかどうか、あとは努力次第。
 とりあえずは、来週の土曜日に向けて、準備を始めよう。
「浅野さんに、どんなこと聞いてみるの?」
 しっかりと手を繋いだまま、作戦会議の始まりだとばかりに、花梨は真剣な顔で頼忠を見上げた。ふたりの忙しい一年は、まだまだスタートしたばかりだ。

Fin.