心の空につむじ風

 春の気配が近づいてくると、そろそろコートが重たくなってくる。冷え込む朝晩はともかく、日中なら陽射しをたっぷりと浴びているほうが暖かいという日も多い。
 今日もちょうど、そんなお天気の一日で、学校が終わったばかりのこの時間帯、コートを腕に抱えて歩いている人も少なくなかった。どんな制服もコートの下に隠されてしまっていた冬とは違って、近くにあるいくつかの高校の生徒たちがあちらこちらにいるのが、良くわかる。とりわけ駅前ということもあってか、連れ立ってファーストフード店や駅ビルへと入っていく高校生の数は、なかなかに多かった。
 そんな中、花梨はひとりで駅前通りを歩いていた。
 もともと、高校へは歩いて通学している花梨だ。学校帰りに駅のほうへ来ることは、めったにない。友達とお茶を飲んでおしゃべりするにしても、学校の近くでということがほとんどで、わざわざ駅前まで足を伸ばすことはない。
 今日もみんなは、いつもの店でおしゃべりに花を咲かせていることだろう。もしかしたら、話題は自分のことかもしれない。
『花梨、付き合い悪くなったよねー』
 みんなにそう言われてしまうようになったのは、もうずいぶん前からのことだ。
 夏休み前までは、毎日のようにみんなと寄り道して話に興じていたものだが、秋頃からめっきりその回数が減ってしまった。理由が理由だから正直に説明するわけにもいかなくて、適当にごまかしつづけてきたわけだが、学年末のテストも間近というこの時期までそれが続けば、花梨を見るみんなの目もいい加減胡散臭げになってくるというものだ。
 今日も、「ごめんねごめんね」と頭を下げる花梨を送り出してはくれたものの、今ごろはみんなで花梨の付き合いが悪くなった理由など推測しているかもしれない。前に、『カレシでもできたの?』と聞かれて思わず口ごもってしまったことがあったから、みんなの予想はたぶん、とても事実に近いところにあることだろう。ただし、その相手が少し前までは本物の武士だった、なんてことは、誰ひとり予想していないだろうけれど。
(そりゃ、わかるわけないよね、そんなこと)
 当たり前かと苦笑をもらしたところで、花梨は足を止めた。今日の目的はここ、駅に程近い大型の書店だ。幅広い年齢層をターゲットにした書店は三階建てで、絵本から専門書、文具まで扱っている。花梨もこれまでに何度か、友人たちに連れられて来たことがある。
 透明の扉が開いて、花梨は書店の中に足を踏み入れた。途端に、駅前の喧騒が遠のいた。
 目の前の、新刊が集められたコーナーなど、人がずいぶんと集まっているというのに、それでも本屋というのはなぜか静かだ。一様に雑誌に見入っている女性たちの後ろを通り過ぎ、花梨は店の奥へと向かう。細い通路を横切ると、今度は棚の前にいるのは男性ばかりになった。
(このへんかな)
 人と人との間から棚に並べられた雑誌を眺め、花梨は立ち止まった。端から順に、タイトルを目で追っていく。
(これじゃないし、これも違うし……)
 じっくりと眺め回していくと、じきに目当ての一冊が見つかった。
(あった)
 目の前に立っていた男性に「すみません」と声をかけながら、花梨は腕を伸ばしてその雑誌を棚から抜き取った。表紙に大きく書かれた誌名は、花梨の探しているものに間違いない。
 鞄を足元に降ろして、花梨はさっそく表紙をめくった。この雑誌はかなりの厚さで、ざっと目を通していくだけでもかなりの手間になりそうだ。目当てのものは、そう簡単に見つかりそうにない。
(前のほうとか、後ろのほうとか、聞いてくれば良かったな)と思ったが、今さら言っても仕方がない。
 根気強くページを繰っていくと、やがて一枚の写真が花梨の目に留まった。この雑誌の中では、どちらかと言えば小さい写真だったが、それを目にした花梨は思わず心の中で(すごーい)と声を上げた。
 小さく切り取られた景色の中でこちらに視線を投げているのは、花梨の良く知る人物だ。たとえもっとちっぽけな写真だったとしても、花梨にはそこに写っているのが誰なのか、すぐわかるに違いない。
(頼忠さん、やっぱりかっこいい)
 いつも見ている人なのに、こうして写真でみると、また少し印象が違う。本物と写真とどちらが素敵か、なんてことは考えるだけ無意味だけど、別の誰かがカメラのレンズ越しに捉えた彼の姿、というのも、花梨の目には新鮮に映った。
 彼がスカウトされたとき、確かにカメラで捉えた姿も素敵だろうなと思いはしたが、これは予想以上の似合いぶりだ。欲目抜きでも見惚れてしまいそうだ。
(この人が、わたしの恋人)
 そんな風に改めて思ったら、なんだかくすぐったいような照れくさいような気持ちになってしまった。うつむき加減に顔を隠して、周りから見えないように花梨はそっと微笑んだ。
 この写真の中では鋭い眼つきの彼も、花梨にはやさしい笑顔を向けてくれる。くつろいだ様子で、ときには気の抜けた表情だって見せてくれる。
(それが、恋人の特権、なのかな)
 笑顔を浮かべたまま、花梨はもう一度写真の中の頼忠に視線を落としてから、雑誌を閉じた。そして、手にした雑誌一冊を大事に抱えて、レジへと向かった。

 帰宅して一息つくと、花梨は自分の部屋で雑誌を再び開いた。先ほどはせわしなかったからと、今度はゆっくり、先頭から目を通していく。
 男性向けのファッション誌など買ったのは、生まれて初めてのことだが、こうして見てみるといろいろおもしろい。すっかり夢中になって、黙々とページをめくっていたが、そこへ鞄の中から電子音が響いた。
 携帯電話の着信音。頼忠からのときとは、音が違う。
(誰だろう?)
 雑誌を開きっぱなしにしたまま、花梨は急いで鞄から携帯電話を取り出した。ディスプレイにちらりと視線を走らせて、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし」
 花梨の言葉に、すぐさま明るい声が返ってきた。
『高倉さん?』
 短い言葉ひとつ取ってもエネルギーがみなぎっているという印象を与える声は、頼忠のマネージメントをしてくれている浅野のものだ。『元気?』と気軽に呼びかけてきた声に、花梨も「はい」と朗らかに答えた。
 彼女が花梨のところに電話をかけてくるのは、これで何度目になるだろうか。付き合いはまだまだ短いものの、わりと頻繁に連絡をくれている。
「頼忠さんのお仕事、どうですか?」
 簡単にあいさつを済ませて、花梨が尋ねてみると、『とっても順調よ』と上機嫌な声が返ってきた。
 頼忠が浅野のもとで仕事を始めてから、かれこれ一か月近くが過ぎた。仕事の話を受けるまでに少し時間があったことを考えると、出逢ってから一ヵ月半ぐらいは経っているだろうか。
 初詣の日に初めて話をしてから、花梨と頼忠はふたり揃って何度か浅野と会った。仕事の内容についての詳しい話、雇用条件、それから雑談に織り交ぜてそれとなく身の上話もした。
 ふたりの事情をどこまで話すか、正直なところ、相当迷った。下手をすれば、せっかくまとまりかけた仕事の話を潰してしまうのではないかということが不安だった。だが、仕事のときには花梨に替わってフォローしてくれる人が必要だということと、浅野に対する「信用できそうな気がする」というふたり共通の印象があって、何度目に会ったときだったか、思い切って本当のことを打ち明けてみたのだった。
 浅野は、驚くかと思いきや、『そういうことだったの』などと思ったよりあっさり納得してくれて、逆に話をしたふたりのほうが驚きを隠せなかったくらいだった。
『ふざけてるとかって、思わないんですか?』
 花梨が不思議に思って尋ねると、浅野はけろりとして『どちらかというと、合点がいった、というところかしらね』などと言ってのけたものだ。
『道理で、なにか違うって思ったわけだわ』
 浅野は頼忠を見て、半ば感嘆したように呟いていた。その隣で花梨が首を傾げていると、『今時なかなかいないわよ、こういう人』と言って、浅野はふっと口元を緩めた。意味ありげな視線を花梨に送って、口の端をきゅっと吊り上げる。
『いいオトコだわ』
 ストレートな言葉に思わず花梨は目を丸くした。あわてて浅野を見つめ返すと、途端に彼女は表情を戻して豪快に笑った。
『やだもう、変な心配しないの』
『あの、そんなつもりじゃ』
 ますます焦る花梨に、『高倉さんったら』と言って浅野はひとしきり笑っていた。
『とにかく、事情はわかったわ。仕事の上でも考慮するし、ちゃんと面倒見るから、安心して』
 真顔に戻った彼女は、力強くそう言い切ってくれた。『お願いします』と揃って頭を下げたふたりに、『こちらこそ』と答えた顔は、本当に頼りがいのありそうな笑顔だった。
 そんな彼女は、話の終わりにこんな言葉で、またもや花梨の目を丸くさせたものだった。本気とも冗談ともつかない笑顔で、ふふっと笑ってみせた彼女は、こう言っていたのだった。
『わたし、いいオトコとかわいい子には弱いのよ』

 あの日の言葉を実践しているということなのか、浅野は頼忠のみならず花梨にも目を掛けてくれていて、連絡をくれることもしばしばだ。
『雑誌、もう見た?』
 どうやら、今日はその話らしい。「はい。今、見てました」と答えながら、花梨は件の雑誌を手元に引き寄せた。片手でページを繰って、頼忠の写真が載っているところを探し当てる。
『良く撮れてるでしょ』
 自信たっぷりといった様子の浅野に、花梨も心から「はい」とうなずいた。もう一度、じっくりと写真を眺める。カメラのことはなにもわからないけれど、きっと腕の良い人なのだろう。初めて見た人でも目を留めそうな、素敵な写真だと思う。
『スタイリストも張り切っちゃってね……』
 それからしばらく、浅野は撮影のときの話を聞かせてくれた。頼忠が、案外すんなりと現場に溶け込んでいたということ。それでも、並べられた衣装の数に少々面食らっていたようだったこと。照明の強さに顔をしかめていたこと。
 話し上手な浅野の言葉は、花梨にもその場の状況を思い浮かべさせてくれるものだ。ときどき「わあ」とか「うんうん」などと相槌を打ちながら、花梨は浅野の話に聞き入った。
『……ところで、彼にはもう電話したの?』
 話が一段落したところで、浅野がふと尋ねてきた。
「いえ、まだです」
『あら、それじゃあ、わたしはそろそろ電話切らせてもらおうかな。高倉さん、早く話したいでしょ?』
「え、あの」
 口ごもる花梨に、浅野は笑って続けた。
『わたしもそろそろ仕事だし、それじゃあね』
「あ、そうなんですか」
 ありがとうございました、と花梨が告げると、『こちらこそ』と答えて浅野が電話を切った。耳元から降ろした携帯電話のディスプレイには、『通話時間9分38秒』と表示されている。
 おしゃべりにはそれほど長い時間というわけではないが、浅野はこうして良く、仕事の合間に連絡をくれている。「気に入られているようだな」とは頼忠が苦笑しながら言った言葉だったが、どうもそういうことらしい。
 浅野は頼忠よりもひとつふたつ年嵩らしいから、花梨にとっては一回りほど年が離れていることになる。それだけ年上の人と接するというのは、正直言って緊張するものではあるのだ。
 とはいえ、彼女は仕事中の頼忠を全面的にフォローしてくれている人だ。頼らざるを得ないし、実際彼女は肝が据わっていて頼りがいのある人で、これまでのところたいした問題もなく仕事ができているのは、ひとえに彼女のおかげだろうと花梨は思っている。
 時折、電話口で『今日はちょっとひやひやしちゃったわよー』などと言っているのだが、その声音はあくまであっけらかんとしたものだ。その調子で、その日撮影現場でどんなことがあったかということを、花梨に聞かせてくれる。頼忠本人からも仕事の話はちらほら聞かせてもらうのだが、それとはまた違った話が聞けるのは、とても楽しいものだ。
(頼忠さんに目を留めてくれたのが浅野さんで、本当に良かった)
 これまでのことを思い返して、花梨はつくづく、自分たちの幸運に感謝したくなるのだった。

 花梨が思わずどきりとするようなことが起きたのは、学年末試験までいよいよ二週間余りとなったある日のことだった。その日は頼忠と会う予定もなかったから、花梨は久しぶりに、みんなと一緒に放課後の時間を過ごしていた。
 しかし、この時期になれば、放課後の寄り道も楽しいおしゃべりの時間というだけでは済まなくなる。教科書やノートを持ち寄って、どこそこがわからない、そこは聞き逃した、などとみんなテスト対策に熱が入ってくる。
 とはいえ、女子高生が何人も集まっていて、それだけで終わるはずもない。一時間もすれば、みんな次第に教科書やノートを閉じ始めて、あとはいつも通り、気楽なおしゃべりに花が咲く。ちょっとした噂話に、昨日のテレビ番組のこと、それから少し気が早いけれど春休みの予定も話題に上った。
 とりとめのないおしゃべりの中で、誰かが持ち込んだ情報誌が話題の中心になったりもする。新商品のお菓子が出るとか、どこそこに新しいお店ができたとか。早くも春休みに向けた行楽情報などもあって、花梨たちはまたひとしきり盛り上がった。
「……っと、そうだそうだ」
 花梨のはす向かいに座っていたカナが、鞄をごそごそと探り始めたのは、そのときだった。
「なになに?」
 みんなの注目を浴びながら彼女が取り出したのは、これまた一冊の雑誌だった。「これこれ」と言いながら彼女がテーブルに置いたその雑誌を見て、花梨は一瞬、ぴくりと眉を動かした。
 思いっきり見覚えのある表紙だ。花梨の部屋にも、これとまったく同じものがある。
 思わず動きを止めた花梨の前で、みんなはぱらぱらとページをめくりながら、あれこれしゃべり始めた。
「カナ、ほんとこういうの好きだよねー」
「うん、男物の服とか小物とかも、見てるだけでもけっこう楽しいもんだよ」
 とはいうものの、そこはやはり女の子の集団だ。写真を眺めているうちに、いつしか「この人かっこいい」という類いの話になるのは自然なことだろう。
 盛り上がる友人たちを他所に、花梨はひとり、必死に平静を取り繕っていた。
 書店に行ったとき、男性ファッション誌の種類が想像以上に多くて、目当ての一冊を見つけるのに苦労した記憶は、まだ新しい。そんな数ある雑誌の中から、よりにもよって今ここで、これが出てこなくたって良いではないか。
 内心、思い切り動揺している花梨はそっちのけで、みんなの話はますます盛り上がる一方だ。
「ねえ、花梨もこっちの人のほうがかっこいいと思うよね」
 突然話を振られて、花梨は「え、あ、うん」とあいまいに笑ってその場をやり過ごした。いつも花梨が、あまりこの手の話題で騒がないのが幸いしたのだろうか。心ここにあらずといった花梨の様子に、どうやらみんなは気づかなかったようだ。
 早く最後まで見終わってくれないかと心の中で花梨は祈っていたのだが、そんな胸のうちは知らず、みんなはまた、途中のページで目を留めて騒いでいる。
「あ、なんかこの人かっこいいね」
「ホントだー」
「うーん、まあ、確かにね」
「お、いっつも厳しいマキにしてはめずらしい」
「だって、ちょっとその辺にはいない感じじゃない」
「うん、そうだねー」
「幾つぐらいなんだろう」
「三十はいってない感じだよね」
「二十代後半ってとこ?」
 みんなが話題にしている写真をのぞき見て、花梨は心の中で深々と溜め息をついた。
 そこに写っているのは、花梨のよくよく知っている人だ。
(まさかとは思ったけど……)
 やっぱり頼忠さん、と花梨は口には出さずに呟いた。嬉しい気持ちが半分、そしてはらはらする気持ちが半分だ。
 それにしても、みんな好き勝手なことを言っているようだが、その推測はなかなかいい線をいっている。その辺にはいない感じ、という感想も、当然と言えば当然。なんと言っても、彼は正真正銘、本物の武士だったのだ。真剣を持ち、生死の境を何度もくぐり抜けてきた人なんて、花梨たちの身近にはいるわけもない。
(みんな、鋭いなあ)
 友人たちに感心する一方、頼忠との関係を隠しておくのは大変かもしれないと、これからのことを考えればついつい胃を押さえたくもなってくる。
 言うに言えない、という状況に陥る前に、さっさと話しておくべきか。憂鬱なテストを前に、もうひとつ心を悩ませる問題が出てきてしまった。
(ちょっと頭痛いかも……)
 そっと額を押さえながら、花梨は心の中で、今日何度目かの溜め息をもらした。

「頼忠さん、けっこう人気あるんだよ」
 週末、頼忠の部屋を訪れた花梨は、ソファに身を埋めて頼忠の背中に話しかけた。
 キッチンでお湯を沸かしていた頼忠は、首だけで振り返って、少し眉を下げてみせる。なんだかちょっと困ったような表情だ。(めずらしい顔、見ちゃったな)と、花梨としてはひとつ得をしたような気持ちになったが、本当に、こんな顔は滅多にない。
 先日電話をくれた浅野によれば、雑誌の反響を見て「わりと反応いいわよ」と頼忠に告げたときは、どことなくほっとした様子に見えたということだった。だが、こうしたことで人に騒がれるというのにはまだまだ慣れなくて、戸惑っているのかもしれない。こんな形で注目を浴びるようになるなんて、年を越すまでは、頼忠にも、そしてもちろん花梨にも、想像できなかったことなのだから。
 それでも、この仕事を始めてから頼忠が生き生きとしているように見えて、花梨はそれが嬉しかった。
 ときどき、考えてしまうことがあったのだ。京での頼忠は、武士という自らの立場に強い自負を持っていたようだった。その頼忠が、こちらの世界に来て武士という立場を手放し、ましてや働く場所も持たずにいるということは、彼にとっては苦しいことではないのかと。そんな思いをさせるくらいなら、いっそあのとき、自分が京に残れば良かったのではないかと。
 今さら考えても詮のないことだとはわかっているから、余計にこわかった。
 彼はいつか、この世界に来たことを悔やむようになるかもしれない。そしてもしそうなったら、それを決して花梨には見せずにひとりで抱え込んでしまうのだろうと思った。
 けれど今、彼は新たなものを手に入れた。なにひとつ知らなかったこの世界で、生きていくという覚悟だけでなく、生きていけるのだという確かな自信を。
 ときどき冗談めかして「この仕事は疲れる」なんて言ったりもするけれど、そんなときでも頼忠の表情は、とても楽しそうだ。浅野に言わせれば「性に合ってるんじゃない?」ということだが、案外その通りなのかもしれない。
 それでも頼忠が少しばかり困惑顔なのは、これまで自分の容姿に頓着してこなかったためなのだろう。頼忠の写真が載っている雑誌をふたりして見ていて、花梨が「頼忠さん、やっぱりかっこいいね」と笑ったときも、やはり先ほどと同じようにあいまいな表情を見せていた。
「……でも、頼忠さん、有名になっちゃったりしたら困るなあ」
 ぽつりと呟くと、頼忠が真顔で見返してきた。
 ともすれば、「ではやめよう」などと言い出しかねないのが、頼忠という人だ。花梨はあわてて、ぱたぱたと手を振った。
「あ、あのね、頼忠さんがお仕事してるのを見るのは、嬉しいんだよ。だけど、みんなが頼忠さんの顔知ってたら、一緒に歩くの、ちょっと照れるかな、とか」
「……ああ」
 なるほどという顔で、頼忠がうなずいた。本当に、そんなことは考えてもいなかったという様子だ。スカウトまでされておきながら、やはりどうにも自分の外見が周囲に与えるインパクトに無頓着なのだ。
 そもそも、雑誌に載ったりなんかしなくたって、一緒に外を歩いていれば、主に女性からの、頼忠に向ける視線が、ひしひしとわかるくらいなのに。そんなとき、こそばゆさを感じている花梨の心のうちなど知らず、頼忠は平然としている。
(でも、頼忠さんがいくら平気だって、周りが放っておかないよね)
 まだまだ駆け出しとはいえ、この街で、それも花梨の身近なところで、もう頼忠の顔を知っている人はいるわけだ。今度から、このあたりを一緒に歩くときは、少し気をつけたほうがいいのかもしれない。
 うっかり友人たちに見かけられて、あとで「どういうこと?」なんて質問攻めにされたりしたら、たまったものではない。
 我ながらぜいたくな悩みだと思いつつ、花梨は(かっこいいカレシ、っていうのも、大変だなあ)などと、こっそり溜め息をついた。

 三月に入ると、いよいよ学年末試験も目前だ。週末とはいっても、クラスメートの大半が家でまじめに試験勉強をしていることだろう。花梨のようにふらふら出歩いているなどというのは、きっと少数派に違いない。
(別に、余裕ってわけじゃないんだけど)
 成績は悪いほうではないと言ったって、試験前に余裕綽々でいられるほど良いわけでもない。それでもこうして出かけてきたのは、今日が貴重なデートの機会だからだ。
 これからしばらくの間は、花梨は試験、そして頼忠のほうは仕事が立て込んでいるということで、当分会えそうにない。すぐ近くに住んでいるのだし、電話だっていつでもできるのだけれど、ゆっくり会う時間が取れないとわかっているのは、やはり寂しい。
 替わりに今日は、できるだけ一緒にいたくて、早くから出かけてきた。京にいた頃、頼忠が梅を好きだと言っていたことを思い出して、ちょうど見頃の梅園をふたりで訪れてみた。
 ゆっくりと園内を散策しながら、京では結局梅が見られなかったね、とか、今ごろはきれいに咲いてるのかな、とか、他愛ない話で京に思いを馳せたふたりは、昼を回った頃になって、ようやくこの街に帰ってきたところだ。
 電車の中は暖房が効いていて暖かかったが、駅を出た途端に冷たい風が吹きつけてきた。もう三月の頭だというのに、今日はずいぶんと冷え込んでいる。
「さむーい……」
 花梨が思わず身を縮こまらせると、隣から頼忠が顔をのぞきこんできた。
「あたたかいものでも飲んで帰るか」
 そう言われて、ぐるりと駅前を見渡した。広い通りにはファーストフード店やコーヒーショップが並び、一息入れる場所には事欠かない。暖房の効いた店内は、きっと暖かいことだろう。
「……でも、ここでのんびりしてたら、帰る頃ってもっと寒いよね」
 時刻はすでに午後、これから陽は傾く一方だ。店内で三十分、一時間と過ごして再び外に出てきたことのことを考えると、思わず顔をしかめてしまいそうだ。
「まっすぐ頼忠さんのうちまで帰っちゃおう?」
 花梨の言葉に「わかった」と頼忠がうなずき返して、それでは帰ろうかとなったところで、なぜか突然、頼忠が足を止めた。少し待っているようにと言い残して、どこかへと歩いていく。
(どうしたんだろう)
 早足で遠ざかっていく背中を見送りながら、花梨は首を傾げた。彼がこんな唐突な行動に出るのはめずらしい。
 それにしても、こうして見るとやはり頼忠は良く目立つ。背が高いことももちろんあるだろうけれど、原因はそれだけではない。
(オーラっていうのかな)
 理由は言葉にできないけれど、なぜか目をひきつけられる人なのだ。それもきっと、彼の持っている才能のひとつなのだろう。こうして後ろ姿を見るだけでも、モデルという職業に納得がいくような気がする。立ち姿だけではなくて、歩く姿も( ―― きれい、っていうのかな)、ぴしりと整っている。
 頼忠が柱を曲がって見えなくなるまで、花梨は笑みを浮かべてその方向を見やっていた。
 と、そこに、「あれー、花梨?」と高い声が飛び込んできた。
「え?」
 あわてて声の聞こえたほうを振り向くと、クラスメートのカナとミサキが並んでこちらを見ていた。
「あ、あれ? こんなところでどうしたの?」
「図書館行ってきた帰り。花梨は?」
 聞き返されて、花梨は思わず言葉に詰まってしまった。しかし、ふたりが別段訝しげな顔もしていないところを見ると、どうやら頼忠と一緒にいるところは目撃されていないらしい。とっさにめまぐるしく頭を回転させて、花梨はどうにか「あの、ちょっと買いものに」とその場を取り繕った。
「ひとりで?」
 不思議そうに尋ねられて、「うん、うん」とうなずき返す。顔はどうにか笑っているものの、内心は嘘がばれやしないかと冷や汗たらたらだ。
(どうしようー)
 このままここでふたりと話し込んでいたら、いつ頼忠が戻ってくるかしれない。しかも運悪く、と言おうか、ここにいるカナは、あのときみんなのところで雑誌を持ち出した張本人だ。頼忠を見たら、一目であの雑誌に載っていた人だとわかってしまうだろう。
 とにかく、鉢合わせという事態だけは、なにがなんでも避けなくてはならない。
 動揺を隠して必死に普通の様子を装う花梨の心も知らず、カナとミサキはのんきに「なに買ったの?」などと聞いてくる。
「いや、あの、たいしたものじゃないんだ」
「ふーん」
 それ以上は追求されないことに、花梨はほんの少しだけ胸をなでおろした。しかし、それも一瞬のこと。
「ねえ、ちょっとお茶飲んでいこうよ」
 立ち話もなんだしねえ、と笑うミサキの提案は、いつもなら嬉しい言葉だ。ふたつ返事でうなずいて、どこへ行こうかと請け合うところだ。だが、今日は困る。
「ごめん、今日はちょっと……」
「え? なんで?」
 いつもの調子でいるふたりには、花梨の答えが意外だったらしい。不思議そうな、そして少し不満そうな顔で、問い返してきた。
「あの……ほら、これから家で勉強しないと」
 困った挙げ句の言葉は、思いっきり口からでまかせだったのだが、どうやら幸いにしてふたりは信用してくれたらしい。
「まあねー、テスト前だもんねえ」
「わたしたちも帰って勉強しないとまずいんじゃないの?」
「かなあ?」
 口々に言い合っているふたりは、放っておけばこのままここで立ち話を続けそうな気配だ。
「じゃ、じゃあ、そういうわけで、わたし、帰るから」
 花梨が一歩、後退りつつ告げると、ふたりが「もう帰っちゃうの?」と声を揃えた。明らかに不服そうなふたりに、申し訳ない気持ちも湧いたが、とにかく今は、ここを離れることが先決だ。
「ごめん、ごめんね」
 必死の思いで頭を下げたのが功を奏したのかどうか、ふたりはあっさり、「ま、いいか」と気を取り直した。それ以上花梨を引き止めるのは諦めたらしく、「また明日ね」と言って手を振ってくれた。
「テスト勉強、がんばろうねー」
 明るい声に送られて、花梨は、表向きは名残惜しそうに、内心はほっとしながら、駅の入り口を離れた。
 早足で歩くこと数十メートル、ふたりから見えないところまで来たことを確認すると、花梨はあわてて鞄から携帯電話を取り出した。すぐさま頼忠の番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
『花梨、どうした?』
 頼忠が電話に出た途端、花梨は「あのねあのね」と早口でしゃべりだしていた。
「さっきの場所じゃなくて、あの、駅を出て左側の銀行の前にいるから。今、友達に会っちゃってね、それで急いで移動してきちゃったの。えと、とにかく、銀行の入口のところで待ってるから」
 このときは、あとで思い起こせば笑ってしまうくらいに焦っていて、いきなり一方的にこんなことを言われた頼忠も、さぞや困惑したことだろう。それでもとにかく、『すぐに行く』と請け合ってくれた頼忠は、本当にものの一分足らずで花梨の前に姿を現した。
「よっ」
 頼忠さん、と思わず大声を出しそうになり、花梨はあわてて口を押さえると周りを見回した。まだ、カナとミサキは近くにいるかもしれない。とにかく、一刻も早く駅前を離れたほうがいいだろう。
 焦った花梨は、頼忠の手を取ると勢い良く歩き出した。
「花梨?」
 驚いた声を上げる頼忠の手に、紅茶の缶が握られていることに気づいたが、今はそれどころではない。
「早く、早くー!」
 なぜか声をひそめながら、花梨は頼忠の腕をぐいぐいと引っ張って歩いた。
 やたら急ぎ足で歩く女の子と、その女の子に手を引っ張られている男の人と。端から見れば、ずいぶん妙な光景に見えたに違いない。目立つこと請け合いだ。
 しかし、花梨がそのことに気づいたのは、駅前の喧騒を抜けてしばらく経ってからだった。

「どうなるかと思った……」
 ようやく頼忠の部屋まで帰り着き、やわらかなソファに座り込んだところで、花梨はぐったりと背もたれに身体をあずけた。
 深々と息を吐き出しているところに、キッチンから頼忠が姿を現した。手には大きなカップを持っている。どうやら、先ほどまで手にしていた缶入りの紅茶を移し替えてきたらしい。
 カップを両手で受け取り、花梨は甘い紅茶をごくりと一口飲み下した。頼忠が駅で、暖を取るためにと買ってきてくれた紅茶は、口をつけないうちにすっかりぬるくなってしまっていた。だが、大急ぎで歩いてきたおかげで身体はぽかぽかしていて、このくらい冷めた紅茶がちょうどいい。
 もう一口、二口と紅茶に口をつけるうちに、ようやく気持ちも落ち着いてきた。頼忠が隣に腰を下ろしたのをいいことに、花梨はカップを置くと彼の肩にもたれかかった。
「さっきね、本当に大変だったんだよ。頼忠さんがいなくなったと思ったら、すぐに友達に声かけられてね。本当にひやひやしちゃった。あ、でも、頼忠さんが飲みもの買いに行ってなかったら、ばったり鉢合わせしてたかもしれないんだよね。そうならなくて良かったよね」
 花梨がひとりでしゃべり続けるのを、頼忠は黙って聞いていた。しかし、ひとしきり話して落ち着いた花梨が、首をひねって見上げてみると、頼忠はなぜか困惑したような表情をしている。少し迷うような顔を見せて、頼忠が口を開いた。
「見られると、なにか不都合があるのか?」
「え、不都合っていうか、その……」
 いろいろと困ってしまう、ような気がする。たとえ頼忠がモデルでもなんでもない、普通の人だったとしても、だ。
 なにぶん、これまで男っ気のなかった花梨だ。それが突然、頼忠のような、誰もが認めるかっこいい人と一緒に歩いていたりしたら、友人たちから質問攻めに合うのは間違いないだろう。たぶん、第一声は「カレシ?」で、「いつから付き合ってるの?」とか「どこで知り合ったの?」とか、根掘り葉掘り追求されそうだ。
 ましてや今となっては、カナもミサキも、そして他のみんなも、『雑誌に載っていたかっこいいモデル』として頼忠を知っている。恋人だなどと、もし知れたら、「どういうこと!?」と詰め寄られるのは確実だ。だが。
「……みんなにいろいろ聞かれても、答えられないもん」
 京っていう異世界から来た人なの、と本当のことを言って済むなら、どんなに良いだろう。
 花梨が京に喚ばれて行ったときは、それで良かったのだ。あちらの世界なら、空から神子が降ってきた、で通ってしまった。なんとも寛容な世界なんだなと思うけれど、こちらではそうはいかないのだ。
「だから、一緒にいるの見つかっちゃうと、困る……かな」
 ふうっと息を吐き出すと、花梨の頭のすぐ横で、頼忠も同じように小さな溜め息をついた。気のせいか、その溜め息は、いろいろ厄介だな、と言っているかのように聞こえる。
「あまり、ふたりで外を出歩かないほうがいいか?」
 静かに聞き返されて、花梨は頼忠の顔を見つめ返した。
 今の声が、とても残念そうなものに聞こえたのは、自分の錯覚だろうか。言いたくないことを嫌々口にしていると思ってしまったのは、うぬぼれだろうか。
(わたしは、頼忠さんともっといろんなところに一緒に行って、いろんなものを見たり、いろんな話をしたり、したいけど……)
 ちょっと、期待してしまう。
(頼忠さんも、おんなじように思ってくれてる?)
 じっと頼忠の目をのぞき込むと、その目がふわりと笑った。花梨の考えていることが、なぜか、ちゃんと読み取れているかのように。送り返してくれるやさしい眼差しは、肯定のしるしだ。
 ふたりの想いが同じだとわかったら、すぐに嬉しくなる。照れ隠しに鼻頭をこすった花梨は、頼忠の質問に答える代わりに、「あ、それじゃあ」と口を開いた。
「目立たないような格好、していったらどうかな」
「目立たないような?」
「そう。ほら、有名人って、帽子かぶったりサングラスかけたりして出かけるって言うじゃない」
 花梨の言葉を聞く頼忠は、思案顔だ。眉間に少し、皺を寄せている。
「……余計に目立ちそうだが」
 そう言われて、花梨もよくよく考えてみた。帽子を目深にかぶり、サングラスをかけた頼忠の顔を思い浮かべてみると( ―― あ、ほんとだ)、確かに一層人目を引きそうだ。
 そもそも、背が高いというのが人目につきやすい最たる原因なのだから、そこになにか付け加えるのは逆効果という気がする。
ダメかあ、と花梨が呟いていると、隣で頼忠がかすかに笑みをもらした。
「それならいっそ、気にせずに出かけるか」
「えっ?」
 目を丸くする花梨をよそに、頼忠は涼しい顔をしている。
「誰かになにか聞かれても、適当にごまかしておけばいいだろう」
「えええ? 適当にって」
「それが無理なら、黙っていればいい」
「そ、そんな」
 突然の大胆不敵な発言に、花梨は目を白黒させるばかりだ。頼忠のほうは、そんな花梨を楽しそうな顔で見ていたが、次の言葉を口にする前に、少しだけ真剣な顔をした。
「そして、花梨が信用できると思う相手になら、本当のことを話してしまえばいい」
「……え?」
 間の抜けた反応になってしまったのは、思いがけない言葉のせいだ。どういうことかと驚いていたら、頼忠の笑みが深くなった。
「花梨は嘘をつくのが得意ではなさそうだからな。そのほうがいいだろう」
「……うん、そうだよね」
 どうやら頼忠の言葉は、花梨の性格まで見越してのものだったらしい。てっきり、行き当たりばったりの発言だと思ってしまっていた花梨は、ばつの悪い思いで頬を掻いた。
(投げやりになっちゃってるのかと思ってた)
 頼忠さんごめんなさい、と心の中で頭を下げる。
「……でも、やっぱり、わざわざ目立つようにして出かけることも、ないよね」
「まあな」
「今度、浅野さんに相談してみようか?」
 彼女の仕事柄、もしかしたらなにか良い案を持っているかもしれない。相談してみる価値はあると思う。頼忠も「そうだな」とうなずいてくれて、一旦この話題は打ち切りになった。
「……あと、あのね」
 言おうかどうしようか、少しだけ迷ってから花梨は切り出した。頼忠の様子をうかがいながら、おずおずと口を開く。
「友達に、頼忠さんのこと紹介してもいいかな?」
 この人がわたしの恋人なんだよ、とみんなに言うときのことを考えると、こそばゆい気持ちになる。けれど、街中でばったり出くわしてしどろもどろになるくらいなら、いっそ自分から言ってしまうほうが落ち着けるような気がする。いろんなことを聞かれるだろうけれど、頼忠の言う通り、答えられないことは答えられないと素直に言えばいい。いつかはみんなに、本当のことを全部話せる日だって、来るかもしれない。
(でも、頼忠さんは、そうやって紹介とかされるの、嫌だったりしないかな)
 頼忠の顔色をうかがっていると、真っ直ぐに見つめ返された。頼忠は笑みを崩さないまま、花梨の髪をくしゃりと撫でる。そのまま頭を抱き寄せられて、間近で目を見交わした。
 この距離で、思わず目を見開いてしまうのはいつものことで、そんな花梨が目を閉じるまで頼忠が待ってくれるのも、いつものことだ。
初めてのときから回数を重ねるごとに、くちびるを合わせている時間も長くなってきていて、いつの間にか指先が、彼の服をつかんでしまっている。顔を離して、息を整えて、それからようやく花梨は、自分の手が彼のシャツの胸元をしわくちゃにしてしまっていたことに気づいた。
 あわてて手を離す様子を、頼忠が笑い顔で見ているのがわかるから、面映ゆくてたまらない。照れくささをまぎらわせるために、花梨は指先で、シャツに寄ったしわを伸ばし始めた。口を開いてしまうのも、照れ隠しのうちだ。
「……頼忠さん、みんなに会ったらきっと質問攻めだよ」
 みんなに紹介していいかと尋ねたことに、頼忠がくちびるで答えをくれたから、花梨はその先の話を始める。
「頼忠さんは、いろいろ聞かれたらどうする? 教えられないって、黙っちゃう?」
「いや、適当に答えておく」
「え?」
 てっきり、自分と同じようにするのだとばかり思っていた。先ほど花梨に黙っていればいいと言ったのは、頼忠もそうするつもりだからだろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。不思議に思って首を傾げたが、頼忠はどこか余裕の表情だ。
「そのあたりは、仕事で慣れているからな」
 頼忠が付け加えた言葉で、合点が入った。どうやら、すでに浅野から、適当な対応の仕方というものを教わっているらしい。
「それじゃあ、今度みんなと会うときに、頼忠さんのこと呼んでもいい?」
 頼忠がうなずくのを確認して、「ええと、頼忠さんのほうは、いつだったら都合いいかな?」ともうひとつ重ねて尋ねた。聞かれた頼忠は、一旦立ち上がると、すぐに手帳を持って戻ってきた。ぱらぱらとページをめくり、三月のカレンダー部分を開いた。
 のぞきこんだページには、仕事の予定が細かく書き込まれていて、忙しく仕事をしている雰囲気がすっかりなじんでしまっている。
「そうだな……これからしばらくは忙しいから……」
 頼忠が「このあたりなら大丈夫だろう」と指差した日付は、花梨のほうでもちょうどテストが終わる頃だ。テストが終わってしまえば、実質的には春休みのようなもの。花梨も、そしておそらくみんなも、都合がいいはずだ。
 予定を頭の中に書き込んで、花梨はひとつ、「うん」とうなずいた。
「急に電話するかもしれないから、驚かないでね」
 まじめに言ったことだったのだが、それを聞いた頼忠は、またおかしそうに笑った。
ふたりが出逢ってから、頼忠がこうして笑顔を見せてくれる時間はどんどん増えていて、それを見るたびに花梨も笑みがこぼれる。日増しに温かな気持ちがふくらんでくるのは、春が近づいてきていることだけが理由ではなくて、たぶん、そういうこともあるのだ。
 今年の春はきっと、これまでで一番暖かい、幸せな季節になる。
 嬉しい予感を胸に、花梨も今日、何度目かになる飛び切りの笑顔を、頼忠に送った。

Fin.