春疾風が吹いたなら

 目を覚ましたら、窓の外はとうに明るくなっていた。いつもの朝とは、陽射しの入ってくる角度が違う。足元を照らしているはずの日光が、今は顔のあたりに降り注いでいた。
(まぶしい……)
 顔をしかめて、花梨は寝返りを打つと窓に背を向けた。そうすると、今度は日光を受けた背中がぽかぽかしてくる。
(何時だろう)
 ごそごそと布団から顔だけ出して、枕もとの目覚し時計をつかんだ。時計の針は、すでに十時を回っている。昨日までなら、とっくに学校に着いていて、テストの真っ最中というところだ。今日からは晴れてテスト休みということで、こうして朝寝坊などしている。
 学年末のテストは科目数も多ければ試験範囲も広くて、テスト期間中は毎日、夜遅くまで勉強をしていた。友人たちもみんな同じような状況だったようで、毎朝顔を合わせるたびに、揃ってげんなりとしていたものだ。
 それだけに昨日、最後の科目が終わったときはみんな大はしゃぎで、寝不足もなんのその、打ち上げだといって延々としゃべり倒してきた。お替わり自由のドリンクで粘ること数時間。存分にしゃべって帰宅したあとは、久しぶりに早く布団に入り、目覚まし時計もセットせずに気持ち良く眠りについたわけだ。
 これだけ思う存分熟睡したのは、本当に久しぶりのことだ。テスト休みに入ったとはいえ、終業式にはまた学校に行くのだから、そうそう毎日寝坊してはいられないと思うのだが、まあ、今日一日くらいは許されるだろう。
(でも、今日だって、もし……)
 理由さえあれば、早起きできただろうな、と、ふと思った。もしも今日、朝から頼忠に会えるということになっていたなら、昨日までの疲れだってけろりと忘れて、いつも通りの時間に起きることができただろう。
(……頼忠さん、元気かなあ)
 彼とは、もう二週間ばかり会っていない。花梨がテストに追われている間、頼忠は頼忠でまた、びっしり詰まった仕事のスケジュールをこなしていたらしい。こちらが休みになった今でも、彼の過密スケジュールはまだまだ続いているようで、仕事の波が落ち着くまでにはもうしばらくかかるだろうということだった。
 日頃、頻繁に顔を合わせていただけに、二週間も会えないと、なんだかずいぶん長いこと顔を見ていないという気分になってしまう。テストの間は忙しさに取り紛れて、彼に会えないということをそこまで意識することもなかったのだが、テストが終わった途端、会いたい気持ちが一気に押し寄せてきた。
 毎晩、教科書やノートを机に広げては、とにかくこれが終われば会えるんだ、と自分に言い聞かせて励みにしていたものだから、すっかり、テストが終わればすぐに会えるようなつもりになってしまっていたらしい。
(なのに、まだ待たなくちゃいけないのかなあ)
 彼は彼で、がんばって仕事をしているのだから、わがままを言ってはいけない。そう思いはするけれど、それで会いたい気持ちが減るわけでもない。
 いつ会えるのか、約束すれば少しは心も落ち着くだろうか。
(……うん、夜になったら電話してみよう)
 とりあえずの結論を出したら、現金なもので、今度はおなかが空いてきた。寝転がったまま大きく伸びをした花梨は、それから弾みをつけて、勢い良くベッドの上に身体を起こした。

 夜も十一時を回って、花梨は携帯電話を手に自分の部屋に戻った。頼忠の仕事がいくら忙しいとはいえ、この時間になれば帰ってきている確率も高い。
 指先で何度かボタンを操作して、目当ての番号を表示させた。久しぶりに目にする電話帳の文字が、妙に懐かしい。
 通話ボタンを押して、呼び出し音が鳴り出すまで数秒。いつもより少し長い時間が経ってから、その音が途切れた。
『花梨』
 名前を呼んでくれる声も久しぶりで、「頼忠さん」と答える声が、思わず弾んだものになった。
「元気だった?」
 嬉しさのにじんだ声で尋ねると、頼忠も明るい声で『ああ』と答え、それから逆に『花梨は?』と尋ね返してきた。
「うん、元気。やっとテストも終わったし」
『そうか』
「頼忠さんは、お仕事、どう?」
 少しの間があって、それから『それなりに』という言葉が返ってきた。短い言葉だったが、どこか彼らしくないような気がする。
(ちょっと疲れてるのかな)
 先ほどは元気と言っていたが、体調を崩したりはしていないだろうかと気になった。京での仕事が仕事だったから、人並み以上に体力はあるだろうけれど、それだけに無理をしがちな人だと知っているから、心配になる。
 今度会えるときは、せっかくの休みなのだからどこかに出かけようかと考えていたけれど、こんな様子なら、部屋でのんびりと過ごしてもいいかもしれない。ろくに話もできなかった二週間の間に、話したいことがたくさん溜まってしまったような気がするから。
(たくさん、おしゃべりしたいな)
 湧き上がってきた期待を胸に抱きつつ、花梨は用件を切り出した。今日電話したのは、世間話をするためではないのだ。
「あの、今週の土曜日、会える?」
 押し付けがましくならないようにと、できるだけさりげない調子を装って話しかけたが、心の中は正反対。会えるという返事が聞きたくて、騒いでいる。
 だが、頼忠からの返事はなかなか聞こえてこなかった。
「……もしかして、土曜日もお仕事?」
 そろりそろりと尋ねてみると、『……すまない』と、まことに言いづらそうな声が返ってきた。
 頼忠の答えに一瞬落胆しかけた花梨だったが、「あの、それじゃあ」とすぐに気を取り直した。
「ええと、日曜日は、どう?」
 今度は少しばかり、期待が声に表れてしまっていたかもしれない。
 それだけに、ふたたびの沈黙は重たいものだった。(そんなあ)と天を仰ぎたい気持ちになったのはやまやまだったが、もう一度彼に断らせるのも悪い気がして、あわてて「……もだめなんだよね」と言い足した。
 花梨が落胆しているのがわかるのだろう。電話の向こうからは、申し訳なさそうな気配が伝わってくる。
「仕方ないよね、お仕事だもんね」
 努めて明るく言うと、また小さく頼忠の詫びる声が聞こえた。
「ううん、いいんだよ」
(寂しくたって、我慢しなくちゃいけないときだって、あるよね)
 会いたくても会えないときがある。それがたぶん、普通のことで、これまでが特別だったのだ。
 頼忠は、京にいた頃は神子に対する八葉として、なにより花梨のことを優先してくれていた。こちらにきても、仕事を始めるまでは、たいていいつも自分の部屋にいて、花梨を迎えてくれた。
 会いたいときに会えるということに慣れてしまった自分は、今、少し贅沢になってしまっているから、変わっていかなければいけない部分が、きっとある。
「……頼忠さんのお仕事が一息つくまで、ちゃんと待ってる」
 花梨の言葉に、頼忠が電話の向こうで息をもらすのが聞こえた。小さく笑うときの癖。その息遣いひとつで、彼の笑顔を思い浮かべられる。
『来週になれば、時間が取れる』
「本当に? 無理してない?」
『ああ。日曜まで仕事が延びた分、週明けからはしばらく楽になる』
 告げられて、もう、会えるまでの日にちを指折り数えている。片手の指で足りる程度の日数。先ほどは予定が延びて寂しいと思ったけれど( ―― それでも、そんなに長くはないよね)、数えてしまえばたいしたことはない。
 毎日、折る指の数は確実に減っていって、ゼロになったときに、彼と会える。待ちきれない思いを抱えて過ごす時間も、これから少しずつ、かけがえのないものになっていくことだろう。
「それじゃあ、また日曜の夜にでも、電話するね」
 朗らかに「おやすみなさい」と言葉を交わして電話を切ったときには、花梨の気持ちはすっかりほぐれていた。

 とは言ったものの、日曜の夜まではやはり長かった。友達と遊んでいたりすれば、日中は気が紛れるのだが、家に帰ってから眠りにつくまでが、長い。ついつい携帯電話に目をやってしまう。手に取ってしまう。かけようかなと、考えてしまう。それでも、仕事が忙しいのをわかっていて、夜遅くに話に付き合わせたりはできないと思うから、通話ボタンは押さずにいた。
(声を聞いたら落ち着くかな。それとも、もっと会いたくなっちゃうかな)
 そんなことを考えたりもしたが、実際に電話してみて、結果が後者だったら困ってしまう。だから、文字通り指折り数えて、今日の日曜日を待っていた。
 いつも通りに夕飯を食べ終えて、自分の部屋に戻ったところで、時計の針は八時半を差している。
 ベッドに腰掛けて、携帯電話を手元に引き寄せた。逸る気持ちを抑えて目当ての電話帳を呼び出し、通話ボタンを押す。
 聞き慣れた呼び出し音が鳴り始めた。彼が電話に出てくれるのを、花梨は今か今かと待った。
 しかし、音の止む気配は一向にない。優に十回以上のコールを聞いたところで、花梨はとうとう諦めて、携帯電話を耳元から降ろした。
(まだお仕事終わってないのかなあ……)
 思わず眉をくもらせてしまったが、繋がらないものは仕方ない。またあとで掛けなおすことにして、花梨はひとまず携帯電話を手から離した。
 ―― それから一時間後、そしてまた一時間後と、時計の長針が「6」の数字を差すたびに、花梨は携帯電話を手に取り、リダイヤルを繰り返した。だが、呼び出し音が鳴り続けるのを聞きながらどれほど待っても、頼忠が電話に出る気配はない。
 ついに時刻が十一時半を回り、それでも電話が繋がらなかったとき、とうとう花梨は、今日中に連絡を取ることを断念した。
(どうしたんだろう……)
 おおかた仕事が長引いているのだろうと思うと、仕方ないとは思う。だがその反面、やるせない気持ちも込み上げてきた。
 今日で仕事が落ち着くと言っていたから、今夜までじっと待っていたのだ。月曜日になれば顔が見られるのだからと言い聞かせて、久しぶりにふたりきりでのんびり過ごすのもいいなと、楽しみにしていたのだ。
 それなのに、電話が繋がりもしないなんて。
 仕事の都合に文句を言うなんて、子どもじみたわがままだとは思ったが、(電話するって、ちゃんと言っておいたのに)という気持ちは拭いようもなかった。
(忘れちゃったのかな……また日曜にって、言ったこと)
 律儀な彼に限ってそんなことはないだろうと思うのだが、このところの尋常ではない忙しさを思えば、ないとも言い切れない。
 電話をかける前のわくわくした気持ちはどこへやら、すっかり気落ちしてしまった花梨は、ベッドに突っ伏すと深い溜め息を吐き出した。

 一夜明けた翌日の昼過ぎ。花梨は、昨夜ついに繋がらなかった番号へと、ふたたび電話をかけてみた。この前頼忠と電話をしたときに、月曜からは休みになると言っていたから、今日ならさすがに繋がるだろう。
 電話をして、これから会いに行っても大丈夫だと言ってくれたなら、すぐに出かけよう。そうすれば、夕方までは一緒にゆっくり過ごせる。
 彼に会えることを思えば、昨夜電話が繋がらなかったことなど、些細なことに思えた。
 しかし、期待を胸に携帯電話を手にした花梨を待っていたのは、またしても、無情に鳴り続ける呼び出し音だった。未練がましく携帯電話を耳元から離さなかった花梨だったが、さすがに二十回、三十回と鳴り続ける音を聞いているのも空しくなって、電話を切った。弾んでいた気持ちが、見る間にしぼんでいく。
(今日もお仕事、入っちゃったのかなあ……)
 普通の会社勤めとは違って、イレギュラーな事態が起こりやすい職業ではあるのだろうが、これはずいぶんではないだろうか。
 会えると思っていた日に会えず、予定が延期されて、電話をしてみれば繋がらない。せめて電話に出てくれたなら、まだ気持ちも落ち着くだろうに。あの声で、いつになれば会えるのか、それさえ聞かせてくれたなら、またその日を楽しみに待つことだってできるだろうに。
 とにかく、まったく連絡がつかないのでは埒があかない。おおかた仕事だろうと予想していても、もしかしてなにかあったのではないかと心配になってしまう。
 万が一、事故にでも遭っていたとしたら。急病で倒れていたりしたら。元気でいてくれることだけでも確かめておかないと、気が収まりそうにない。
 花梨は一旦放り出した携帯電話をつかむと、昨日から何度もかけたものとは違う番号を呼び出した。液晶画面には『浅野礼子』の文字が浮かぶ。
 忙しくしているだろう彼女に、いつもならこちらから電話することなど考えもしない。だが今日だけは、とにかく頼忠に連絡を取りたい気持ちのほうが勝った。
 躊躇したのは一瞬。思い切って通話ボタンを押すと、コールをゆっくり数える間もなく、応答があった。
『もしもし、高倉さんなの?』
 第一声からもうテンションの高い声は、紛れもなく浅野のものだ。
「すみません、お忙しいところ」
 恐縮しつつ花梨がそう言うと、『気にしないで』と朗らかな声が返ってきた。
『それで、どうしたの? 急に』
「あ、あの……頼忠さんって、まだお仕事中……ですか?」
 一応は、と思って問いかけた言葉に、返ってきたのは意外にも、『え?』という間の抜けた反問だった。
『今日、明日は、オフの予定なんだけど』
「ええ? オフですか?」
 まさかそんな、という思いが浮かんだが、浅野が嘘をついているわけもない。
 驚いた花梨の声から、およその事情は察したらしい。『なに、連絡つかないの?』と、重ねて浅野が尋ねてきた。
「えーと、……はい」
 ごまかしても仕方ない、とうなずくと、電話の向こうからは『あらあら』と溜め息混じりの声が聞こえてきた。
『まったく、源くんったらなにやってるのかしらねえ。大事な彼女に心配かけて』
 最後のひとことは気遣いを感じさせるやさしい声だったが、今この状況で聞くには、いささか複雑な気分にさせられる言葉だ。
「……とりあえず、またしばらくしたら電話してみます」
 すみませんでした、と通話を終わらせようとしたところに、『あ、待って待って』と浅野の声が追いかけてきた。
『昨日はずいぶん遅かったから、さすがの源くんも、家でぐっすり寝てるのかもしれないわね』
「そうですか……」
 昨日連絡がつかなかったのは、やはり仕事が押していたということだったらしい。そのことだけは予想通りだったんだなと考えていると、『まあ、またなにかあったら連絡して』と浅野の声が聞こえてきた。
「はい、ありがとうございました」
 お礼を言って、今度こそ本当に電話を切ると、花梨は頬に手をやって考え込んだ。
(やっぱり、疲れて寝てるのかな)
 仕事が忙しかったのはわかっているから、それも無理ないかなとは思う。だが、あの頼忠が、昼を過ぎても電話の音にすら気づかずに眠り続けているとしたら、大事ではないだろうか。
(風邪ひいて寝込んじゃってるとか……)
 もし、仕事中から風邪気味だったのを、無理を押して仕事に出ていたのだとしたら、こじらせて熱を出しているということだってありうる。考え始めると心配な気持ちがふくらんできて、居ても立ってもいられなくなった。
(……頼忠さんのところ、行ってみようかな)
 行こうと思えばすぐに行ける距離なのだ。こうして電話が繋がるのを待ち続けているより、直接会いに行ってしまったほうが早い。
 心が決まれば、あとは行動に移すのみ。立ち上がった花梨は、あわただしく出かける支度を始めた。

 ほどなくして辿り着いた頼忠の部屋の前で、花梨は息せき切ってベルを鳴らした。
 まず、一度。ドアの内側で、軽いベルの音が響いているのが聞こえてくる。そのまましばらく待ってみた。しかし、音の余韻が消えてずいぶん経っても、応答はない。もう一度ベルを鳴らして、同じくらいの時間、また待ってみた。それでも、相変わらずドアの中からは物音ひとつ聞こえてこない。
(熟睡しちゃってる……のかな)
 とはいえ、気配や物音に敏い頼忠が、ベルの音にも気づかず眠り続けているなどということは、あるのだろうか。時間だって、昼を回って、もうずいぶん経っている。日の短いこの時期なら、そろそろ太陽も傾き始める頃だ。
(まさか、部屋で倒れてたり……)
 不安に駆られた花梨は、一旦ドアの前を離れると、アパートの表側に回りこんだ。窓からでは中の様子を詳しくうかがい知ることはできないだろうが、とりあえず異常がないかどうかくらいはわかるだろう。
 狭い庭越しに窓の中をのぞき込もうとして、花梨はふと、(あれ?)と首を傾げた。
 カーテンが、開いている。一階ということで、薄いカーテンが目隠し代わりに引かれてはいるが、近づけば、それを透かして室内の様子を見ることは、不可能ではない。
 それ自体は、さして不思議なことでもない。当たり前のことで、だからこそ花梨にしても、窓から中の様子を見てみようなどと考えたわけなのだから。
(でも……)
 頼忠が昨夜帰宅したのは、間違いなく日が落ちた後だ。それどころか、深夜も深夜、いい加減、朝のほうが近いかもしれない、という時間だったらしい。当然、寝る前にはどの部屋も、厚い遮光カーテンまでしっかり引かれていたことだろう。そのまま今まで眠り続けているとしたら、カーテンが開いているのはおかしい。
 そういえば、先ほどドアの前にいたときのことを思い返せば、新聞受けも空になっていたような気がする。しばらく前から頼忠は新聞を取っていて、部屋の片隅に読み終えた新聞が積まれているのを、花梨も見たことがある。だが、今日の新聞は、すでに取り込まれているようだった。
(じゃあ、起きてるの?)
 それなのに、部屋にはいない。ベルを鳴らしても、応答はなかった。
 それでは、ひとりで出かけてしまったのだろうか。仕事で忙しくしている間に溜まってしまった用事でもあるのかもしれないし、あるいは買いものにでも出ているのかもしれない。
(でもそれなら、その前に連絡くれればいいのに……)
 仮に、予想通り頼忠が出かけているとしても、家を出る前に、花梨に連絡してくる時間くらいはあったはずだ。頼忠の携帯電話には、昨夜から花梨が残した不在着信の記録が、いくつも残っているはずなのに。
 いつもなら、そんなことがあれば、手が空いたときに頼忠のほうから電話をかけてきてくれた。それなのに、今日に限って、不在着信に気づいていないなんてこと、あるだろうか。
(……わかってて、連絡くれないのかな)
 なにか、花梨に連絡を取れない理由でもあるのだろうか。電話に出ることのできない、そして、電話をかけることのできない理由。ひとこともなく外出して、いまだに連絡をくれない理由。
 もしかしたら、たった今、花梨のほうから電話をかけてみれば、あっさりと頼忠が出てくれるかもしれない。どこにいて、なにをしているのか、教えてくれるかもしれない。今までどうして連絡が取れなかったのか、その理由を直接彼から聞けば、すぐに納得して、こんな気持ちなど消えてしまうことだろう。
 そう思っていながら、花梨は携帯電話を取り出すことができなかった。
 もしもまた、呼び出し音が鳴り続けるだけだったら。どんなに待っても、頼忠が出てくれなかったら。
 そのとき、理由を考えるのが、こわい。
(……誰かと一緒なの?)
 携帯電話の着信音すら、鳴らないようにして。あるいは、聞こえない振りをして。
 考えたくもないことなのに、一度浮かんだ想像は、なかなか消えてくれない。
 ふと頭の中に、誰か知らない人と並んで歩く彼の姿が浮かんだ。
(女の人、と……?)
 まさか、と思うと同時に、それが絶対にないとは言い切れないことも、わかっていた。
 彼のことを、全部知っているわけじゃない。ましてや、ここ最近はせいぜい電話で話すくらいで、顔を合わせていない。もしもなにかが起きていたとしても、自分には感じ取ることができなかったはずだ。
 ―― ここにいると、悪い想像ばかりふくらんでしまう。ひとりきりでここに立ち尽くしていることが悲しくなって、花梨は力ない足取りで自宅へと引き返した。

(どうしてるんだろう……)
 部屋の白い天井を見つめたまま、花梨はぼんやりと考えていた。
 帰宅して、重い身体をベッドに投げ出したら、それっきり身動きできなくなってしまった。ただ右手に握りしめた携帯電話の手触りが、どうしても彼のことを考えさせる。
 鳴らないままの電話。それはいったい、なにを示しているのだろうか。考えないようにしようと思えば思うほど、先ほどちらりと脳裏を過ぎった光景が、まぶたの裏で鮮明に像を結んだ。
(どうしよう……)
 心の中でぽつりと呟いたら、まだそうと決まったわけでもないのに、涙がにじんできた。そのままにしておいたら、涙があふれて、こぼれ落ちそうで、花梨はぎゅっと目を閉じた。
(もし……)
 こわいことなら、考えるのをやめればいいのに。そういうときほど勝手に頭が働くのは、どうしてなのだろう。
(もし、頼忠さんに、わたしよりもずっと好きな人ができたら……)
 ―― どうして彼は、自分を選んでくれたのだろう。その疑問はいつも、きっと少しの不安を包んで、心の中にあった。
 京にいたとき、自分は神子だったから。異世界からきた、めずらしい存在だったから。そのことが、彼の心にまったく影響を及ぼさなかったなんて、思えない。
 けれど、今の自分は、なにも特別なんかじゃない。神子という肩書きを持っていた頃とは違う、ごくごく平凡な女子高生だ。京で新鮮に映っただろう花梨の言動は、こちらでは当たり前のものだ。半年近くここで過ごしてきた彼には、もうそのことはわかっているだろう。
 自然に掛けられていたフィルターが外れたとき、広く周りに目が向くことを、止められるわけがない。たとえ、彼がその中に、素敵に思う人を見出したとしても、自分にはそれを責める権利はない。
 今、彼が働いているのは、とても華やかな世界。ただの女子高生である花梨では及びもつかないほど、綺麗で魅力的な女の人がたくさんいるのだろう。
(京にいた頃は、状況が状況だったから。わたしが神子だったから、そばにいて、大事にしてくれてたけど)
 もう必要ないって、言われてしまったら、どうしよう。さようならって、手を振られてしまったら、どうしよう。考えるたびに涙がじわりじわりとあふれてきて、花梨は顔をぎゅっと枕に押し付けた。
 もし彼にそんなことを言われてしまったら、笑って別れなければいけないのだろうか。京のこと、神子や八葉のこと、彼と一緒にここへ戻ってきたこと、そのすべてを忘れて、なかったことにしてしまわなければいけないのだろうか。
(……そんなの、やだよ)
 あの時間を、忘れたくない。一緒に過ごしてきた彼と、離れたくない。隣からいなくなるのは、嫌だ。
 ―― 京を離れてこの世界に来てくれた彼のために、自分がしっかりしなければと、ずっと思っていた。助けてあげないと、守らないと、と思っていた。絶対にひとりにしちゃいけない、と思っていた。けれどそれは、裏を返せば、自分のほうが強い立場にあるという気持ちではなかっただろうか。いつも自分が手を差し伸べる立場にいるのだという思いが、心のどこかにあったのではないだろうか。
(本当は、そんなことないのに)
 恋をしたら、それだけで立場は同じ。こちらの生活に慣れているかどうかなんて、些細なことになってしまうのだ。
(わたしだって、頼忠さんがいなくなったら困る。苦しいよ)
 彼が隣から消えてしまったら、どうしていいのかわからなくなる。
 もしかしたら、そのことを思うだけで不安に押し潰されそうになる自分のほうが、ずっとずっと弱いのかもしれない。彼よりも、ずっと。
(……会いたいよ)
 今すぐ会いたい。会って、今抱えている不安を、全部どこかに流しさってほしい。
(でも、こわい)
 ふたりが会えなかった間になにがあったのか、それがわからないから。不安を押し流すどころか、肯定されてしまったらと思うと、彼に会うのがこわい。
 こんなにも好きなのに、片想いになってしまったらどうしよう。
 不安な気持ちに耐え兼ねて、両手にぎゅっと力を込めた。右の手のひらには、硬い携帯電話の感触がある。ずっと握りしめていたそれは、もう人肌の温かさだ。
 その携帯電話が、不意に手の中で震え始めた。同時に、今の気持ちに不似合いな、明るい着信音が流れ出す。
 この音を鳴らせる人は、世界中にたったひとりしかいない。
 反射的に身を起こし、花梨はディスプレイを見た。そこには、昨夜から何度も見続けてきた名前が、浮かび上がっていた。
 なにか考えるより先に、花梨の指は通話ボタンを押していた。

「……もしもし」
『花梨?』
「あ、うん……」
『今、大丈夫か?』
「うん」
『……連絡できなくて、悪かった』
「う、うん……」
(どうして?)
 尋ねたかったけれど、言葉は喉元で消えた。頼忠も、それきりなにも言わない。花梨はただ黙って、電話の向こうから伝わってくる気配をうかがっていた。
 背後の音が、わずかながら耳に流れ込んでくる。人々のざわめき。どこなのだろう。誰かと一緒にいるのだろうかと考えた途端、先ほどまでの想像を思い出して、胸が苦しくなった。
 その刹那だった。
『花梨』
 やさしい声で、名前を呼ばれた。
『なにかあったのか?』
 労わるような声が、泣きたい気持ちにさせる。
 口を開けない。なにかひとことでも言おうとしたら、途端にわけもわからないまま泣き出してしまいそうだった。
(なんでもないよって、言いたいのに)
 心配させないよう、そう言わなければいけないと思うのに。思えば思うほど、言葉が詰まる。
『花梨』
 また、名前を呼ぶ声が聞こえた。先ほどより少し、急いた口調だった。
『今から会えるか?』
 答えを返すより先に、頼忠がまた言葉を接いだ。それを耳にした瞬間、花梨は携帯電話を強く握りしめていた。
『……会いたい』
(わたしも)
 同じことを、ずっと思っていた。同じ気持ちで、過ごしてきた。彼の言葉を、その響きを聞いたら、会うことを怖れる気持ちなど、どこかに消えていった。
 残ったのはただ、少しでも早く、少しでもそばに行きたい、その気持ちだけ。
「……わたしも、会いたい」
 震える声を抑えて、花梨はようやく、それだけを口にした。

 久しぶりに入った部屋は、以前となにも変わっていなかった。いつもの場所に腰を下ろす。すぐ隣に彼が座る。肩先から伝わる温もりに、目を閉じて身体をあずけた。触れている場所はほんの一部でも、全身にあたたかさが広がっていくような気がする。
 こうしていると、どうして自分はあんなに不安になっていたのだろうと思ってしまう。声を聞いて、顔を見て。それだけで、彼の口からなにも聞かなくても、心にわだかまっていた不安は消えてしまった。身を寄せていれば、今も想いが通じあっていると、自然に思える。
 会えない、連絡がつかない、というだけで、悪い方向にばかり考えてしまったことを思うと、改めて、これまでどれほど、そばにいるのが当たり前になっていたのかということを、思い知らされた。
(わがままなんだなあ、わたし)
 仕事をがんばってほしいと言いながら、そのせいで会えない日が続くと、こんなふうに思い悩んだりする。
(自信がないから……なのかな)
 どうして彼が自分を選んでくれたのか、それがまだわからないから。この世界へ一緒に来てくれた、そのことだけで充分だと思いながらも、時折不安に駆られる。
「花梨」
 黙って花梨の髪を撫でていた頼忠が、不意に口を開いた。
「怒っているか?」
 驚いて、花梨は目を開けた。頼忠の顔を見上げると、表情がわずかにくもっている。花梨はその目を見つめたまま、頭を振った。
「怒るなんて、そんな……」
 そう、ただ不安だっただけだ。
 言われて思い返せば、連絡がつかなかった間、腹を立てるより先に、あれこれ心配ばかりが浮かんでいた。
「でも、どうして電話、出られなかったの?」
 不安が消えたら、あとには単純な疑問だけが残った。花梨の言葉に、今度は頼忠の表情が決まり悪そうなものに変わる。
 苦笑しながら彼が説明してくれたところによると、こういった事情だったらしい。
 ―― 昨夜電話が繋がらなかったのは、やはり仕事が押したためだった。終わったのが午前零時を過ぎていたから、端から花梨に電話はできないと考えていた。その後、大きな仕事が終わったからということで、打ち上げに行った。深夜もいいところという時間にようやくお開きになって帰宅したのだが、寝る前にとりあえず携帯電話の着信履歴だけでも見ておこうと思ったところで、携帯電話が手元にないことに気づいた。おおかた打ち上げをした店か、スタジオかのどちらかに忘れてきたのだろうと思ったが、時間が時間だったので、すぐに確認を取ることができなかった。今朝起きてから、昨夜の店とスタジオとを回り、ようやく携帯電話を見つけたのが、昼を回ってしばらく経った頃。見てみれば、着信履歴にずらりと花梨の名前が並んでいて、その場からすぐに電話をかけてきてくれたのだと言う。
「なんだあ……」
 聞かされてみれば他愛のないことで、一気に身体の力が抜けてしまった。
「頼忠さんでも、忘れものなんてするんだ」
 いささか驚いて呟くと、どうやらよほどに不本意なことだったらしい。頼忠が見る間に不服そうな顔になった。
「なんだ、そうだったんだ……」
 気が抜けたら、険しい彼の表情にも関わらず、今度は笑い出しそうになった。
(それだけなのに、なんであんなこと、考えたんだろう。本当に)
 笑いそうで、けれど泣きそうな気持ちになる。安堵する気持ちと、自分に呆れる気持ちとが、入り混じっていた。
「……花梨は、どうしたんだ?」
「え?」
 複雑な気持ちで溜め息をついていると、不意にそう尋ねられた。問いかけの意味がわからずに聞き返すと、また頼忠の表情が動く。心配げな目が、花梨を見下ろしてきた。
「先ほど電話していたとき、様子がおかしかっただろう」
「あ……」
 まさか、心変わりされたかもしれないと怯えていたなんて、本当のことは言えない。それでも、不安になっていた気持ちを、話しておきたいと思った。この人なら聞いてくれる、受け止めてくれる、そう思えた。
「あの……あのね」
 抱えていた思いを、少しずつ言葉にして吐き出していった。言葉に詰まりながら、それでも正直に、心の中身を話した。花梨の話を、頼忠はずっと、やさしい目で聞いてくれていた。
「……頼忠さん、本当に素敵な人だから。どうして、わたしなのかな……って」
 伏し目がちに呟くと、黙っていた頼忠が、ゆっくり口を開いた。
「花梨は?」
 どうして自分だったのか、と頼忠が尋ねてきた。やさしいけれど真剣な目で、花梨を見た。
「そんな、理由なんて……」
 戸惑って頼忠を見返すと、彼は笑んだままで言葉を接いだ。
「時折、同じようなことを考えていた」
 花梨が自分に好意を寄せてくれたのは、なにも知らない世界で、偶然そばにいたのが自分だったからではないのか。そんな思いがあったと、頼忠は言った。
「そんな……それだけじゃ、ないよ」
「わかっている」
 ふたりが、神子と八葉だったこと。そのことになんの意味もなかったとは、思わない。出逢えたこと、そばで過ごしてきたことは、紛れもなくそのお陰だったのだから。
 けれどその上には、ふたりで築いてきた時間がある。今、一緒にいるのは、その時間の中で確かに育んできた想いがあるからだ。
 そばにいたい。離れたくない。その想いは、強い。けれどそこに、理由なんてない。あっても、言葉にできるものではない。
「どうして、なんて、説明できないけど……わたし、頼忠さんが好き」
 口にしてしまってから、突然照れくさくなって、視線を逸らした。その途端、強い力で抱きすくめられて、花梨もまた、頼忠の背に手を回した。
(同じ……って、言ってくれてる)
 腕の力も、身体を包む温もりも、耳元に聞こえる鼓動も。言葉より雄弁に、心を教えてくれる。
 想いがあふれそうで言葉にならないとき、語ることができるのは、この身体。頼忠の背に触れた腕に、花梨はしっかりと力をこめた。

 気づいたときには、窓の外は日も落ちてすっかり暗くなっていた。頼忠の腕の中にいた間は、時間の流れがとてもゆるやかで、実際にどれくらいの時間が経っているのかわからなかった。だが、ふと顔を上げてみれば、先ほどまで夕陽に照らし出されていたはずの室内は、もう闇に紛れかけている。
 何時くらいだろうかと時計を見上げ、花梨は驚いて声を上げた。
「もう、七時……」
 家を出るときはとても気が急いていたから、「ちょっと出かけてくる」としか言ってこなかった。それからなんの連絡も入れていないのだから、そろそろ帰らなければ心配をかけてしまうかもしれない。
 眉をくもらせた花梨に、頼忠が静かに「帰るか?」と尋ねてきた。
 うなずいて身体を離す、それだけのことを、ためらった。
 ずっと会えなくて、寂しい思いをしていた。不安な気持ちに襲われもした。
 ようやくこうして会って、話をすることができたのだ。今日だけは、ずっとこうしていたい。彼の腕の中にいたい。この温もりから、離れたくない。
 答えない花梨を、頼忠はじっと見ていた。
(このまま、そばに……)
 そう口にすることもできなくて、けれど、帰るというふうに気持ちを固めることもできない。見つめ合うだけ。彼の視線を、ただ受け止めることしかできない。
 動けない花梨の視界の隅で、頼忠の手が不意に動いた。先ほどまでのように、頭を引き寄せられる。耳元を吐息がかすめたと思った瞬間、抑えた声にささやかれた。
「泊まっていくか?」
 鼓動が跳ねた。彼の声音で、一瞬のうちに意味を悟らされた。息を詰めると、自分の心臓の音がおかしいくらいに大きく、耳の内側で響いた。
(ずっと一緒にいて、そういうこと考えなかったわけじゃないけど……)
 突然だから、戸惑ってしまう。言われていることはわかっているのに、頭が働いてくれない。心の準備、なんていっても、できているのかどうか、わからない。
(でも……)
 いつかは、と思う気持ちは、あった。あったと、思う。だから今、彼の言葉を嫌だとは思わない。恐ろしいとも、思わない。そのことだけは、混乱した頭の中でも、ちゃんとわかっている。
 ―― 息を詰めた。目を合わせるのはさすがに気恥ずかしくて、顔は伏せたままでいた。首を縦に振る、ただそれだけのことに、こんなにも覚悟を決めたりするのは、あとにも先にも、きっと今だけだろう。
 うなずいた花梨の動作は、小さなものだった。彼の肩先に擦れた髪が、ほんの少し、かさりと音を立てた程度の動きだった。
 けれど、その直後抱き締めてきた彼の腕の力は、とても強かった。強くて、やさしかった。
(頼忠さん……)
 息苦しいほどに抱きすくめられたまま、目を閉じた花梨は、心の中で何度も彼の名前を呼んだ。
 ―― その夜、花梨は家に帰らなかった。

Fin.