それでもやっぱり、空は青

 白いごはんを口に運んだら、お味噌汁を飲む。お漬けものをぽりぽりと噛み砕いて、それからまたごはんを食べた。次は卵焼き、ほうれん草のお浸し、それから海苔もある。
 テーブルの上には、とても朝ごはんとは思えないほどたくさんのお皿が並べられている。そんな数々のお皿と、自分の口との間を、花梨の箸は淡々と往復していた。
 食卓はとても静かだ。とは言っても、重苦しい空気が漂っているわけではないし、ひとこともしゃべってはいけないという重圧感があるわけでもない。
 ただ単に、会話がない。それだけのことだ。
 今、花梨と向かい合ってごはんを食べている人は、もともと口数が少ない。ましてや、食事中に雑談をするなんていう習慣は、間違っても身につけていないだろう。
 花梨のほうから話しかけなければ会話が始まらないというのは、別に食事中に限ったことではなくて、いつもおなじみのことだ。だと言うのに、この妙な居心地の悪さは、いったいどうしたことだろう。
(うう、緊張する……)
 顔をできるだけ上げないようにしながら、花梨は煮豆の皿に箸を伸ばした。つやつやした豆が、深めの小鉢にきれいに盛られている。小山のてっぺんにあった一粒を箸でつまみあげようとしたら、つるりとすべってふたたび小鉢の中に落ちた。
 花梨が(あっ)と身を乗り出したところへ、テーブルの向こうから小さく吹き出すのが聞こえてきた。つられて思わず顔を上げると、目が合った。
 おかしそうに笑う彼の目に捉えられた途端、かっと顔が熱くなって、花梨はあわてて、また下を向いた。
 ―― 別に、豆を取り落として笑われたのが恥ずかしいのではない。とにかく、今朝の頼忠はずっとこんな調子なのだ。
 ふと気がつくと、花梨のことをじっと見つめている。そして、目が合うとやわらかに微笑んでくる。とてもやさしいのに、ほんの何パーセントか意地の悪さも忍ばせた笑顔だ。その顔を見ると、途端に赤くなってしまう。顔を合わせていられなくなって、視線を逸らしてしまう。それでも頼忠は、ずっと花梨を見ている。目を合わせなくても、気配だけでそのことがわかるくらいに、視線を花梨の上に貼りつけたまま、動かさない。
 面映ゆい。花梨がそう思っていることを知っていて、そんなことをしてくる。けれど花梨のほうは、意地が悪いと腹を立てるどころではないのだ。
(ど、どうしよう)
 なんだか無性に、恥ずかしい。なにがどう恥ずかしいのか説明しろと、もし言われたら、ますます赤くなって言葉に詰まってしまうのは間違いない。
(だって、昨日は……)
 ―― 昨夜のことは、良く覚えていない。いや、本当は覚えているのだろうけれど、思い出そうとすると、途端にその場に倒れこんでしまいそうな心地になるのだ。
 それでもこうして彼と向かい合っていると、少しずつ記憶は浮かび上がってくる。
 今のところ一番鮮明なのは、彼の声だ。一番鮮明で、それだけに一番おかしくさせられそうな、記憶。
(……あんな声で、呼ぶんだもん)
 名前を呼んでくれた声が、掠れていた。聞いたことのない響きをしていた。
 耳の内側にその記憶を呼び起こしてしまって、途端に、顔に火のつくような思いに捕らわれた。
(わわわ、わたしのばかーっ)
 思い出したらこうなるとわかっているのに、気がつくと、つい昨夜のことを考えている。覚えていないと思っていた部分を、少しずつ記憶の中から拾い上げて、まるでジグソーパズルのピースのように、当てはめていっている。
 穴だらけだったパズルの盤面に少しずつピースがはめ込まれていくと、昨夜の光景が徐々に浮かび上がってくる。声だけではなくて、たとえば間近に見た彼の表情も、脳裏に甦る。
 あの声、あの表情。きっと忘れられないんだろうなと、思った。心のどこかにずっと残って、いつまでも消えないものになっていくのだろう。
(……そういえば、頼忠さんが汗かいてるのって、初めて見たかも)
 今度は、触覚の記憶。
 彼と出逢ったのは秋のことで、今、季節はようやく春へと向かっている。いつでも文字通り涼しい顔をしている頼忠は、もしかしたら夏になっても汗ひとつかかないんじゃないかと思ってしまう。
 けれど昨夜、幾度も触れた彼の背中は、確かにうっすらと汗ばんでいた。掴まろうとした指先がすべりそうで、強く強く力を込めていたのを、覚えている。
 記憶が記憶を呼んで、昨夜のことから頭が離れない。こんな自分の頭の中など、きっと彼はすっかりお見通しなのだろう。そう考えたら、恥ずかしいやらなにやらで、いたたまれない気分になってきた。
 黙々と箸を動かし続けた花梨は、いつもよりずっと早く、ごはんを食べ終えてしまったのだった。

 朝のうちは、ろくすっぽ頼忠と目を合わせられなかった花梨だったが、それからの午前中をふたりきりで過ごし、昼を過ぎる頃には、ようやくいつもの調子を取り戻していた。
 今日の空はすっきりと青く澄んでいて、こうして外を歩くには絶好の日和だ。
 本当なら、今日は部屋でゆっくり疲れをいやしてもらおうなどと思っていたのだが、遅めの朝ごはんを食べ終わったら冷蔵庫はいよいよすっからかんになってしまって、買いものに行かなければという状況になってしまった。もっとも頼忠としては、どのみちこの休み中に買いものに出ようと思っていたそうで、朝は残っていたものを気前良く使い切ってしまったということだったらしいのだが。
 まあ、こんな良く晴れた日に、部屋から出ないというのも少しもったいない気がする。散歩を兼ねた買いもの、という名目で、ふたりは外に出てきていた。
 頼忠の部屋を後にしたときから、ふたりはしっかりと手を繋いでいる。この前までは、彼と手を繋ごうとするときに、どうしても少し緊張してしまっていた。繋いでしまえば、あとはどうということもなかったのだけれど、手を繋ぐ瞬間にはどこか身構えてしまっていたものだった。
 けれど今日は、差し出された手を自然に取ることができた。目を見たまま、笑顔で彼の手を握り返した。照れくさい気持ちはまだ心のどこかにあるけれど、なにかが昨日までとは違う、そんな気がした。
 頼忠の雰囲気もまた、変わっているような気がした。これまでよりもずっとずっと、近くにいるような気持ちになる。
並んで歩く距離は変わっていないのに、どうしてなのだろう。不思議な気がするけれど、とても嬉しい。幸せな気持ちになれる。
「……ね、頼忠さん」
 見慣れた曲がり角で、花梨は足を止めた。真っ直ぐ買いものに行って帰ってくるのでは味気ないからと、回り道をして歩いてきたのだが、もうひとつ、久しぶりのことをしてみたくなった。
「いつものところ、行こうよ」
 花梨が言ったのは、学校帰りに、また休日にと、何度となく足を運んだ喫茶店のことだ。
 あのお店のおいしい紅茶も、ここ最近飲みに行っていない。今日はずいぶんと暖かい日だから、アイスティーというのも良さそうだ。まだ一度もオーダーしたことはないけれど、あのお店で出してもらうものなら、きっとおいしいに違いない。
 花梨が笑顔で手を引くと、頼忠もすぐに「ああ」と微笑み返してきた。
 喫茶店は、この角を入って少し行ったところだ。家々の立ち並ぶ路地へと、ふたりは進路を変えた。
 そのとき、ふたりの後ろのほうから、大きな声が聞こえてきた。
「花梨ー!」
 振り向いてみれば、ちょうどふたりが背にした道の先に、クラスメートたちの姿が見えた。カナにミサキ、マキにショウコにユカリと、いつもの仲間がみんなで立っている。
 全員が、揃って花梨たちを見ていた。
 丸くなったみんなの目が、自分のすぐ隣に注がれている。表情には、大きく疑問符が浮かんでいた。どうやらみんな、頼忠の顔に見覚えがあって、しかも雑誌で見たということまでしっかり記憶しているらしい。
 心の中で、一瞬(あっ)と声を上げたが、もう前のときのようにあわてたりはしなかった。右の手は頼忠としっかり繋いだまま、花梨は左手を大きく振り上げた。
「みんな、どうしたのー?」
 手を振って呼びかける花梨のそばに、みんなが急ぎ足でやってくる。どういうことなのか聞きたくてたまらないという表情だ。
(頼忠さんはわたしの恋人なんだよって言ったら、みんな、どんな顔になるかな)
 一斉に驚くみんなの顔を思い浮かべて、花梨はくすりと笑みをこぼした。
「頼忠さん」
 隣を見上げて、花梨は笑い混じりに声をひそめてささやいた。
「準備、できてる?」
 花梨の言葉に目顔でうなずいた頼忠は、よくよく見れば、どこか不敵な笑顔を浮かべている。
 そういえば、彼が自分の境遇を適当にでっちあげている現場に居合わせるのは、初めてだ。しれっとした顔でなにを言ってのけるのかと考えると、みんなには申し訳ないけれど、また笑いが込み上げてきた。
 見上げれば、ふたりの頭上には真っ青な空。きらきらと太陽が輝いて、白い雲も目にまぶしい。
 暖かく、かすかに花の香りを運ぶ風が、春はもう、すぐそこだよと、教えてくれていた。

Fin.